スキマ 6
「イルカ先生、準備出来ました?」
居間から寝室へとカカシさんが顔を覗かせた。
「あ、はい・・・もうちょっと・・」
手早く纏めた髪をくくるとベストを羽織ってファスナーを上げる。ズボンの裾を纏め脚絆をくるくる捲いていると、待ちかねたのかもう片方はカカシさんが捲いてくれた。きゅっと締まっていく足元に気持ちまで引き締まる。最後に額当てをぎゅっと縛った。そうすると、ぐっと気合が入って力が漲る気がした。
「お待たせしました。行きましょう」
かばんを提げて、勢い良く玄関に向かう。が、カカシさんが来ない。あれ?っと引き返すと、居間に立ったカカシさんが俯き頭を掻いていた。
「カカシ、さん?どうしたんですか?」
喉に声が詰まって体温が上がった。カカシさんと呼ぶのはまだ少し照れる。
それでももう一度、心地よい響きを持つ名を口にした。
「カカシさん?」
近寄って顔を覗き込めば、両腕が背に回った。
「行かせたくないなぁー」
抱き寄せられ、耳に触れる深い溜息に胸がきゅんとなった。久しぶりの出勤に弾んでいた心にじわっと哀しみが押し寄せる。
カカシさんの肩に顔をうずめて身を寄せた。
確かにすごく寂しい。
あの日の翌日、寝て起きてみると熱が出て布団から抜け出せなかった。そのまま3日間寝込み、漸く熱が下がった後も大事を取って週明けまで休みを取った…というか、あまりに心配したカカシさんに取らされた。
その間約1週間、カカシさんはずっと傍に居てくれた。もちろんカカシさんには任務があったから昼間は仕事に行ってしまったが、任務が終われば飛ぶように帰って来て甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。中の治療も眠っている間にしてくれたから、お風呂での痛みを二度と味わうこともなかった。
初めはお互いに相手に付けた傷を気にしてぎこちなかったりしたが、暫くするとカカシさんがすごく優しかったのもあって蜜月な日々となった。
手を伸ばせば触れられる。
そんな毎日に幸せで心が溶け、べったり甘えた。甘えすぎて、「どうしたの?」なんて不思議がられたりもしたが、――何があってもカカシさんを好きなことを知って――意地を張るのは止めにしただけだった。『俺も男だから』とか密かに思っていたことがどうでも良くなった。
ただカカシさんが好きなだけ。
そう心が決まると甘やかそうと伸ばされるカカシさんの手が心地よくなった。もっと欲しくて傍に寄る。
そうやって。カカシさんが家に居る間は絶えずどこかに触れ合っていた。
だけどそれも昨日で終わり。
今日からはお互い別々に過ごさなくてはならない。仕事の為とは言え、離れてしまうのは寂しい。
離れたくない。
そう思うのが分かっていたから昨日の夜は必死に想いを胸の奥へと押し込めたというのに。
もう一度、はぁっと息を吐いたカカシ先生が体を離した。
「行かせたくないけど・・、そう言う訳にもいかないしね」
「・・はい」
そう言えるカカシさんが恨めしい。溢れてしまった寂しさはもう一度胸の中に押し込めようとしてもなかなか納まらない。
諦めの悪い俺の頬にカカシさんの指が滑った。慇撫するように触れる指に頬を預け、下から見上げるとカカシさんと目が合った。
じっと瞳を見つめかえす。そうすると寂しさの中に一抹の不安が広がる。この一週間、唯一このことにだけ。カカシさんに抱いた不安。
瞬きと同時にカカシさんの視線が反らされた。不安が確信に変わる。ぽつんと冷たい雫が胸の中に落ちた。落ちた雫は黒い影を残していつまでも消えてなくならない。
「行きましょうか」
頷いて、手を引いて歩き出すカカシさんについて行く。
カカシさんが俺に触れなくなった。性的な意味合いを込めては。
「それじゃ、オレこっちだから」
バイバイと手を振って歩いていくカカシさんに手を振り返す。次第に小さくなっていくカカシさんに想いを断ち切るとアカデミーへ向かった。
握り締められていた手がすかすかして寂しい。そして心も。
(気のせいなんかじゃなかったな・・)
この一週間、カカシさんがそう言った意味合いで触れてきたことは一度もない。どんなに擦り寄ってみても、優しくは触れて貰えるが強く抱きしめては貰えない。
最初は気づかなかった。熱があって意識が朦朧としてたから。次にケガのせいかと思った。カカシさんは俺にケガを負わせたことをすごく気にしてたし、大したこと無いと何度言っても自分を責めているフシあったから。
しかし、ケガが治り普通の生活に戻った今、キスすらしないのはおかしい。関係を持つようになってから3日と空けた事が無かったのに。
こんなことばかり気にしている自分が嫌だ。だけど気になる。気にしすぎて失敗をしたばかりなのに性懲りもなく、また。
カカシさんがどこかで処理をしてるんじゃないかと疑いそうになる。
いい加減にしろよと叱責する。なんて疑い深い。自分の中にこんな一面があるなんて思いもしなかった。今の自分に心底嫌気が差す。
(たまたまだよ・・。カカシさんがそんな気分にならなかっただけ)
きっとそうだと言い聞かす。だってカカシさんはあんなに優しい。
それなのに何故不安になるんだろう。
久しぶりのアカデミーは活気があって、子供たちの喧騒に巻き込まれ雑多な日常の出来事に追われるうちにやもやした不安は心の隅に押し遣られた。だけどふとした時間に、それは顔を覗かせて影を揺する。
昼休み。
次第に存在を大きくする影を持て余し、気を紛らわせるために外に出た。
そこで中庭を横切るアスマさんを見かけた。
「アスマさん!」
書庫へ入ろうとするアスマさんを大急ぎで止めた。この前のことを謝りたかった。夜中に押しかけて迷惑を掛けたから。
「おう、イルカか」
気さくな表情で振り向いてくれるのに安心する。
「この前は・・すみませんでした。紅先生にも迷惑を掛けてしまって・・」
「いいっつってただろ。気にすんな。それよりお前ぇ・・、もういいのか?」
「え・・?」
「体の方はよ」
「あ!はい、ええっと・・もうなんとも・・」
そういえばすごい醜態を晒したんだった。アスマさんには小さい頃から知られてるとは言え・・、いや知られてるからこそ恥ずかしい。泣いてカカシさんに負ぶわれるなんて子供の頃と変わりない。
「・・ちょっと座るか」
羞恥に言葉が続かなくなった俺をアスマさんが中庭のベンチへと引っ張った。待ってろと言い置いて近くの自販機に走る背中に子供の頃の記憶が蘇る。
懐かしい。
よくああやって駄菓子屋でお菓子を買ってくれた。
ほらよとぶっきらぼうに差し出されたココアを手の中で転がした。缶の熱さに手が温まるのと同時に心も温かくなる。
「それでよ・・・上手くやってるのか、その・・カカシとは・・」
(わっ!)
直球な質問に心臓が跳ねた。何故だか緊張してしまって言葉を選ぶ。
たぶん、親に付き合ってる人のことを聞かれたらこんな気持ちになるんじゃないだろうか。
「・・はい。上手くやってると思います。大切にしてもらってるし・・」
ふわふわと浮き上がろうとする心を抑えられない。幸せで誇らしくて自慢したくなる。そんな気持ちに陰りを差す影のことは見ないふりした。
「それでもな、この前みたいのは・・」
「あれは・・!俺が悪かったんです、俺がカカシさんに酷いこと言ったからそれで・・ちょっと・・こじれて・・。カカシさんは何にも悪くない」
「・・そうか、ならいいんだが・・。それにしてもお前ぇがカカシと付き合うとはなぁ」
「変ですか・・?」
「変とまでは言わねぇが・・」
そこで言葉を切ると煙草に火を点けた。
「まあ意外だったと言うか――」
吐き出された煙が風に流れた。白い塊が空気に乗って霧散する。
「へへ、俺もそう思います」
「っておい・・」
一体何が良くってカカシさんが俺と一緒に居るんだか。
「でも――、俺は・・カカシさんとずっと一緒に居たい。カカシさんがすごく大事。きっと両親よりもっと、今まで出会った人の中で一番――・・」
一番、大事な人だ。
痛いほどの想いが胸を占める。それは何事にも代えがたい事実として胸の奥にある。
――なんだ。
ふいに、すとんと胸の中に落ちてきた。
(何を不安になっていたんだろう。それで充分なのに)
霧が晴れるように影が消えていく。
水晶の珠に閉じ込めたような一点の曇りなく、凛と揺ぎ無い確かな想いが心を支えている。
ぽんと頭の上に手が乗った。
「そうか」
さっきのよりずっと暖かな『そうか』に、顔を上げるとアスマさんがにかっと笑った。
(わ!俺・・っ、恥ず!何を真剣に語ってんだろ。)
ふわーと茹る血液に顔を赤くすると、アス兄が豪快に笑った。ぐりぐり頭を捏ねるように撫ぜられて、がくがく頭が揺れる。
「も・・っ、止めてください・・!あ、そうだ」
手を退けて、ずいっと顔を寄せるとアス兄が目を見開いた。
「カカシさんのこと教えてください。アス兄カカシさんと一緒に任務出たことありますよね?任務中のカカシさんってどんなカンジですか?」
「どんなって・・あぁ・・まあ、隊に居てあれほど頼もしい奴もいねぇな。冷静な判断力に洞察力。先導力があるからあいつが居ると士気が上がるし、なにより危機を乗り越える力が他の上忍とは桁違いだ。一時期は黒天使だなんて呼ばれて暗・・っと。・・まあ、そんな感じだ」
火の点いた煙草を上下に揺らしながら語るアス兄の言葉に聞き入った。
すごい。カカシさんカッコいい!!
「それから・・?他には――」
惚れ直して続きをせがむと、がさっと頭の上で枝が鳴った。ひらっと目の前を舞った木の葉が落ちるよりも早く、目の前に影が落ちる。
(あ!カカ――)
「なにしてるの?」
声を掛ける前に発せられたカカシさんの声に喉が詰まった。会えた嬉しさが一瞬にして凍る。そんな冷たい声。
「今、任務中デショ?演習だからって気を抜かないでよ。巻物持って来てくれないから先に進めなくてみんな待ってんのよ?」
「ああ、悪りぃ」
あの、カカシさん。俺が引き止めてしまったんです。ごめんなさい。
そう弁解したいのにカカシさんの何かが拒絶する。俺が話しかけるのを拒むように見えない壁が俺を弾く。
「早くしてよね」
カカシさんが一度も俺を見ないまま去った。最初から俺なんか居ないみたいに綺麗に無視した。
「おっかねぇーな、さてと行くか」
立ち上がるアスマさんの袖を引いた。
「あの、ごめんなさい、俺が引き止めたから・・。カカシさん、怒って――」
「あぁ?気にすんな。――イルカ」
いつまでもカカシさんの去った方を見ていた俺の前にアスマさんがしゃがんだ。
「イルカ、気にするな。任務中のアイツはいつもあんなんだ。怒ってる訳じゃねぇ」
「・・――はい」
ぎくしゃくと顎を引くとぽんぽんと頭を叩いてアスマさんも消えた。
一人残されたベンチで消えたと思っていた影が急速に胸の中に広がるのを抑えることが出来なかった。