スキマ 2
髪を撫ぜていたカカシ先生の手が離れた。温かい手が離れてしまったのを心が寂しいと感じる。
「・・・いってきます」
耳元で囁かれる声を目を閉じたまま聞いた。上手く笑える自信がなかった。
完全に気配が消えたのを確認して、目を開いた。カカシ先生の居なくなった部屋はいつもより広く、空っぽに感じる。
どう考えていいのかわからない。いや、わかりたくないのかもしれない。
落ちた袋を拾い、表を見、裏返す。そこにアルファベットを探すが、――明らかに別の袋だ。
それをゴミ箱に落としシャワーに向かう。頭からお湯を浴びながら考えるのはカカシ先生のことばかり。
(どういうことだろう・・・。)
続きは?あと2個はどこにいったんだろう・・・。
もしかして・・・カカシ先生には他にもそういう人がいるんだろうか。俺以外にも体を重ねるような人が・・・。
そう考えると、心を塞ぐような重いものがずんと胸に圧し掛かる。
嫌だと思った。そして嫌だと思う気持ち以上の悲しみが押し寄せる。
(ちがう、そんなことない。)
カカシ先生は俺のこと大事にしてくれてる。優しくしてくれてる。
そんな風に思うのは早計だ。今日、たまたま持ってたのが黒いので、前のは家に置いてあって・・・だから・・・・・ちがう。
ちがう、ちがうと繰り返しながら風呂から出て、出勤する準備を整えた。
だけど一度も胸に湧いた疑念は大きな不安となって簡単に消えてくれない。
アカデミーを終え、受付に行くとカカシ先生が7班の任務を終えた後、単独の任務に出たことが分かった。帰還は明日になっている。
(今日は会わなくて済む・・・。)
どんな顔をして会っていいのか分からなかったので、そのことにほっとした。そしてそんな自分に驚いた。カカシ先生と付き合うようになってから会いたくないなんて思ったことが無かったのだ。
その日の帰り、薬局に寄った。
馬鹿なことをしていると思う。でも確かめずにはいられなかった。
狭い店内を目的の物を探して歩くが、なかなか見つからない。だけど人に聞くにも聞けず、うろうろと歩き回ってやっと見つけた。それは店の奥、他の陳列棚に隠れるようにして置いてあった。
コンドーム。
周りに誰も居ないのを確認して、箱に目を走らせる。カカシ先生が持っていたのと同じものを探すが見つからない。外箱と中の色は一致しないのかもしれない。
恥ずかしながら、俺はこういうことに疎かった。なんせ自分では買ったことがない。買ったことがないどころか、ああいうことをするのはカカシ先生が初めてだった。26にもなって経験がないなんて自分でもどうかと思ったが、カカシ先生は喜んでくれた。嬉しい、と小娘を扱うみたいに優しく、優しく――・・。
思い出すと羞恥に足元から頭の先までぶわっと熱が駆け上がった。
辺りをきょろきょろ見回すと、――誰も居ない。
だけどコンドームの前で赤面してる26の男なんてヘンな人に見られるに違いない。
とにかく個数だけでも見て帰ろうと棚に貼られた札を見て、心臓が嫌な感じで冷えた。
急いで薬局を出ると家に向かう。
一番数が少ないので36個入り。それ以上数が少ないのを探しても見当たらなかった。
(・・・・俺、まだカカシ先生と36回もしてない・・とおもう・・・)
細かい回数まで覚えていないが、この前のピンクが物珍しかったから、その前はきっと違う色で、だとすると黒に至るまでに少なくとも72個は消化されてることになる。このうちの何個かは使っただろうが・・・明らかに数が合わない。合わなさ過ぎる。
なんだ・・・そうだったのか・・・。
家に帰り着くと気力も尽きて、ぺたんと壁に凭れて座り込んだ。窓から差し込んでいた夕日はとっくに沈んで、街灯の明かりが僅かに部屋の中を照らす。ずるずると壁を滑って転がると膝を抱え込んだ。
つらい。思っていたより、ずっと。
付き合ってるんだと思ってた。
でもカカシ先生には他にもそういうことをする人がいて、自分はその中の一人だった訳だ。
滑稽だ。
付き合おうと言われたことも無いのに、勝手にそう思い込んでいた自分が。
いい年をして遊びと本気の区別も付かず、本気になっていた。
ちょっと考えてみれば分かりそうなことなのに。
上忍で力も実力もあって、おまけに容姿も端麗なカカシ先生が男なんかを本気で相手する訳なんか無い。
きっと都合良かったのだろう。優しくして、コロッと靡いた俺が。お手軽だっただろうし、妊娠する心配も無い。
ははっと自嘲気味に笑うとついでに涙も零れた。一度零れた涙はぶわっと溢れ出して、やがて嗚咽に変わった。
悲しい。
胸を抉るような悲しみに、こんなにも好きになっていたのかと実感する。そして、今尚カカシ先生のことが好きだと思った。向けられる優しさも、微笑みも、他の人に向けられるものと同じものだと分かっても、尚。
一頻り泣いて、嗚咽がぐずり上げるのに変わる頃、ようやく落ち着いてこれからのことを考えるだけの余裕が出来た。
もう一緒にいられないと思う。
好きな人を誰かと共有しながら付き合えるほど自分はさばけていない。
――別れよう。
そう決めるとまた新たな涙が浮かんだ。体の半分を削られるような痛みが全身を襲う。
(だけど、別れるもなにもカカシ先生は俺と付き合ってるって思って無いんだもんな・・・。)
寂しくそんなことを考えていると、突然部屋の明かりが点いた。
「イルカセンセ?」
ビクッと体が震えた。居るはずの無い人に名前を呼ばれて、心臓が痛いぐらいに張り詰める。咄嗟に腕で顔を隠して思考を巡らした。
(どうしよう・・・。帰って来るなんて思ってなかった。こんなところを見られる予定ではなかったのに。)
「どうしたの・・?真っ暗なままで・・具合悪い?」
優しい声音にまた涙が溢れそうになる。ぐっと唇を噛んで耐えていると傍にきたカカシ先生が膝をついて、背中に手を置いた。
「泣いてるの?なにかあった?」
「・・・・・・・・・」
(なんでこんな風に優しくするんだろう。これじゃあ勘違いしたって仕方ないじゃないか。)
いい訳じみたことを思いながら、首を横に振った。
「な・・でも・・あ・・ません」
長いこと泣いていた喉は詰まって上手く喋れない。鼻に掛かった声をみっともなく思いながら顔を擦ると、その腕を取られた。引き剥がされるのを嫌ってぐっと腕に顔をつけていると、転がっている体の下に腕を通されゆっくり起こされる。そのままぽすっと腕の中に収まって痛いほど強く抱きしめられた。
そうされると心が溶けてしまう。別れようと決めたことがあっけなく崩れ去ってしまう。
(やっぱり駄目だ。この腕じゃないと駄目だ。失うことなんて出来ないよ。)
おずおずとカカシ先生の背中に手を廻すと、より強く引き寄せられた。腕の中の温かさに気持ちがどうしようもなく安らぐ。
「・・・ねぇ、どうしたの?言ってよ・・・」
心配し、懇願するような声音は本物だと思った。だけど、今は一緒にいるから?と思うとツキっと胸に痛みが走る。
「誰かにいじめられた?」
可笑しいと思った。いじめられるなんて、子供を心配するみたいに。
言ってやろうか。泣いてるのはアナタのせいだと。コンドームのことを問い詰めたらどんな顔をするのだろう。
だけどその先を想像すると怖くて口に出せなかった。そんなことを言って疎まれたら、面倒だと切り捨てられたら――。
(そんなのは嫌だ。)
そんなことになるぐらいなら黙っていた方がいい。何も言わなければ、今の関係は続く。それはいつまでか分からないが、少なくとも今すぐ別れに直面するなんてことはない。
「いじめられてなんかいません。本当になんでもないんです」
へへっと照れ隠しに笑って顔を擦るとカカシ先生が眉尻を下げて顔を覗きこんだ。
「だって、そんな泣いて・・・」
「違うんです。なんか・・・ちょっと・・・寂しくなっただけ・・・」
――寂しい。
誤魔化したくて出た言葉だが、真実だと思った。
この先どんなにカカシ先生のことを思ったって報われることはない。それは一人なのと一緒だ。
――さみしい。
身を切るような悲しみに、拭った傍から涙が溢れた。拭っても拭っても治まることを知らず、溢れ出す。
「イルカセンセ・・・オレ、どうしたらいい?」
ひどく困った声が降りそそいだ。
(困らなくていい。どうもしなくていい。ただもうしばらく傍に居て欲しい。)
泣きながら首を横に振ると腕と取られ、カカシ先生が涙を啄ばんでくる。その優しい仕草に首の後ろに手を回すと、引き寄せられ唇が重なった。深く口吻けられ、体から力が抜けると畳みの上に横たえられた。
「あ・・・」
これから始まる事を予感して体が震えた。戸惑っている間にカカシ先生の手は服の下に入り込み、胸を撫ぜてくる。
(どうしよう・・・怖い・・・。)
今までとは違う。恋人同士だと思っていた頃とは。
このまま抱かれると言うことは体を差し出すと言う事だ。ただ傍に居たいが為に自分のことを好きでもない相手に――。
そんなのは嫌だという想いと、それでも構わないという想いが交差する。
(大したことじゃない。今まで何度も体を重ねた。初めてじゃない。)
我慢すれば一緒に居られる・・・。
「ア、・・・んっ・・」
戸惑う心とは裏腹に体は熱を拾い上げる。乳首を口に含まれ、熱い舌先で転がされるといいようのない痺れが腰に走る。
行為に、慣れているから。
だけど、そんな自分が浅ましいと、汚らわしいと思ったら――。
「い、いやだ、やめろっ、はなせ!」
背を向けカカシ先生の下から這い出し、乱れた上着を直した。服の裾を押さえた手が震える。激しい怒りで。
(どうして俺がこんなこと我慢しなくちゃいけない。・・・どうして・・・どうして・・)
「イルカセンセ?どうしたの・・・?」
「触るな」
伸ばされた手を弾くとカカシ先生がひどく驚いた顔をした。それでも伸ばされる手に距離を取ろうと後退ると、行き場を無くした手は床に落ちた。まともにカカシ先生の顔を見ることが出来なくて、その指先をいつまでも見ていた。
「・・ゴメン、イヤだった・・よね・・、ホント・・・ゴメンナサイ・・」
「・・・帰ってください」
「ゴメン・・・そんなに怒らないでよ・・」
「帰ってください。もう2度と・・ここに来ないで――」
「イルカセンセっ、待ってよ、どうしてそんな話に」
「うるさいっ!帰れ!アンタの顔なんか見たくない!もう2度と会わない!!帰れっ!」
「イヤだっ!!」
床についていたカカシ先生の指先に、ぐっと力が入るのを見て、
「イルカセンセッ!?」
ありったけの光玉をぶちまけると部屋から逃げ出した。