イルカ観察日記 9





 両手に土産を抱えて、二週間ぶりの職場へ着くと何やら事務所中がソワソワしていた。
「アスマさん、園長がお呼びです」
「ああ」
 挨拶もそこそこに園長室へ向かうと、両手を挙げて歓迎された。
「二週間の休みをありがとうございました。これ頼まれていたものです」
「わざわざ済まなかったな」
「いえ、紅も同じ物を欲しかったみたいですから」
 園長に頼まれたものは美容液で俺にはちんぷんかんぷんだったが、紅に話すとすぐに店に連れて行ってくれた。一本ん万円もする美容液だった。そんな小瓶に何万も掛ける女の気持ちは計り知れない。
「それよりアスマ」
 早速仕事の顔に切り替わった園長に、気持ちを切り替えた。
「はい」
「イルカの隣にホワイトタイガーが来ることになった。名前は『カカシ』だ。「はたけカカシ」からの寄付だ」
「ええっ?」
 すでに名前が決まっている事に驚く暇も無かった。二次会の後のカカシの様子を思い出した。
(これだったのか…。アイツ…一体幾ら稼いでんだ?)
 ホワイトタイガーなんて億は下らない。
(凄すぎる…)
 そんなものをポンと寄付したカカシに驚きを隠せなかった。
 園長は上機嫌で今にも踊り出しそうだ。そりゃそうだろう。今の時代、白い毛並みの動物は破格の人気ぶりだった。
「世話をお前に任せる。トラの到着は二週間後だ。『カカシ』はイルカと並んで園のスターになるだろう。心して掛かれ」
「はい」
 カカシの資料を受け取り、園長室を後にした。
 カカシは野生のベンガルトラだった。雄。正確な年齢は不明。
 密漁で捕獲された後、保護団体に助けられていた。右目に怪我を負い、野生に返せずにいたところをカカシ(人間)に買われ、この園に贈られていた。
 トラが増えるのはいいが、一つだけ気掛かりなことがあった。
 イルカは以前、雌トラとお見合いをして失敗している。
 相手は五歳の雌トラだった。イルカより年上で、どうなるかと様子を影から見ていると、イルカは初めて見る自分以外のトラに嬉しそうに寄っていったが、気性の激しい雌トラに威嚇されて腰を抜かしてしまった。
 以来自分のトラ舎から出て来なくなったイルカにお見合いは失敗に終わり、雌トラは元の動物園に帰っていった。
(今度は雄だからなぁ…)
 イルカが怖がらなければいいが。
 そう思いながらも、これからは何かとイルカの姿が見られるだろうと思うと嬉しくなった。
 俺はカカシに電話を掛けた。
「あ、アスマ。話聞いてくれた?」
「ああ、ホワイトタイガーを贈ってくれたんだってな。お前何考えてんだ? トラなんて安くないだろう」
「ウン? いーんだよ! やっぱ『イルカ』の隣には『カカシ』がいないとねーっ! ホワイトタイガーにしたのはオレの髪の色に合わせてだーよ。さすがに銀色のトラはいないからさぁ、せめて目の色だけでもと思っていろいろ探したんだよ。それでね――」
 きゃはーと黄色い声を上げそうなカカシにプチッと携帯を切った。
 そう言うことか。
(なら遠慮無く)
 願わくは、イルカと仲良くなってくれるといいが。


 だが、期待に反してイルカはカカシを嫌った。カカシの方はイルカに興味があるらしいが、イルカはカカシが傍に寄ると呻り声を上げた。
「随分嫌ってますねぇ」
 研修生だったシカマルは、そのまま木の葉動物園に入社した。
「だな。こればっかりは仕方ねぇ」
 トラは元々群れない動物だ。同じトラとは言え、後から来たカカシにイルカは良い顔をしなかった。その証拠に縄張り意識に目覚めてマーキングしまくっている。
 納得してないのはカカシ(人間)だった。
「どうして『カカシ』が嫌われてるの? アスマ、なんかしたんじゃないの」
 涙声で訴えてくるカカシの電話をプチッと切った。俺はそんなに暇じゃない。
 イルカがカカシを嫌いなら嫌いで良かった。イルカには俺がちゃんとした良い嫁さんを探してきてやる。


 ところがある日、カカシが脱走した。
 朝、出勤するとカカシがいない。頭の中で街の人を襲うカカシを想像して血の気が引いた。
(なんでだ? 鍵は閉まっていたのに!)
「うわ、うわぁっ!」
 イルカのトラ舎から悲鳴が聞こえた。
「アスマさん来て下さい! カカシが!」
 モップを持つとイルカのトラ舎へ走った。何としてでもシカマルを助けなければならない。
(例え、命を失うことになっても…!)
 紅の丸みを帯びた腹と未来の子供に想いを馳せた。
(すまねぇ、紅)
 だが、イルカのトラ舎に着くとシカマルはカカシに襲われることなく、檻の中を見ていた。
「アスマさん、カカシがいます!」
「は?」
 シカマルが指差す方を見れば、カカシがイルカを押さえつけながら、イルカの頬をベロベロ舐めていた。イルカは迷惑そうな顔をしているが、何故か逃げない。
「な…、どうしているんだ?」
「さぁ…」
 それよりどうやって入ったんだ?
「イルカ! 大丈夫か?」
 思わず声を掛けると、ピンと耳を立てたイルカがカカシを押し退けて駆け寄ってきた。
 ふるるるるっ、ふるるるるっ!
 はち切れそうなほど嬉しそうな声を上げて、撫でて欲しそうに檻に頭を押し付ける。
 ぐるるるるるる…。
 その後でカカシが威嚇音を鳴らした。檻にべったりくっついたイルカの体を押して、向こうに押しやろうとする。
 その瞬間、イルカが前足を上げてカカシの顔にトラパンチした。
 あうっ!
 そんな声が聞こえて来そうな顔で、カカシが耳としっぽを垂らした。イルカはしっぽでビシッとカカシを叩いて藁の寝床へ戻って行った。その後をカカシがトボトボ付いていく。
「……なんか、憐れっすね」
 シカマルが言った。同感だった。
 イルカに害が無いのは分かったが、二頭を一緒にしておくつもりはなかった。今後も安全だと限らないし、発情期が来ればお互いに気が立って傷付け合うかもしれない。
 何とかカカシを元のトラ舎へ戻そうとしたが、その度に咆哮を上げて威嚇するから難しかった。怒ったトラは本当に怖い。
 吹き矢で狙って眠らせようとしたが、カカシは機敏に避けた。麻酔銃で狙えば確実だが、カカシに銃を向けたくなかった。心に同じ傷を負わせたくない。
 イルカとカカシのトラ舎の柵を一部切り取って、入ったら隔離しようかと画策したが無駄に終わった。
 カカシがイルカから離れない。そうしている内にイルカがカカシに懐く気配を見せて、俺はカカシを元に戻すのを諦めた。土台、人間がトラに叶う筈無いのだ。
 二頭が一緒になって狭くなったトラ舎をカカシのトラ舎とくっつけて広くした。担当は俺とシカマルと代番(副担当)で組むことになった。
 縄張りはどうなるだろうと思ったが、なんとイルカのものになった。カカシはマーキングするイルカの後を大人しく付いていくだけだ。
(意外とイルカは強いのか?)
 体はイルカの方が小さいから、どう見てもそう見えないのだが。
(まぁ、仲が良いのは良いことだ)
 伴侶では無いが、イルカに仲間が出来た。
 そう思っていたある日、俺はとんでもないものを見た。残業を終えて帰る所だった。園内を歩いていると、なにやら声が聞こえる。
 イルカの声だ。
 どうしたんだろうとトラ舎に近寄ってみると、イルカがカカシに押さえつけられて苦しげな声を上げていた。
 危惧していたことがとうとう起こった。
 そう思って、イルカを助けに行こうとしたところで雲が晴れた。折しもその夜は満月で、薄暗かった運動場がはっきりと見えた。
(あっ!)
 イルカが苛められていると思ったのに、そうじゃなかった。カカシが腰を振っている。なんと二頭は交尾していた。それは言葉にならない衝撃だった。かあっと頭に血が上った。
(俺の大事なイルカになんてことを!)
 大きな音を立てて二頭を離れさせようとしたが、それより早くカカシが離れた。ぐったりと体を横たえるイルカの顔や体を舐めて綺麗にしていた。
 だがそんなことでは誤魔化されない。イルカが園育ちで何も知らないのを良いことに、カカシの手籠めにされていた。


 




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