イルカ観察日記 8





 花子が体調を崩して翌日は紅の部屋へ行けなかった。こればっかりはしょうがない。仕事柄、急な夜勤は当たり前だった。そこを理解してくれない女とは一緒になれない。気にはなったが紅の携帯へメールを入れて花子に付き添った。
 花子は高齢で、人間で言えばおばあちゃんだった。俺が園に来た頃にはすでにいた。元々野生の熊であまり人に懐かなかった。
 本来動物とはそんなものかもしれない。イルカが特別だっただけで…。
 ふと、今ならイルカに会えることに気付いた。夜中なら、担当者はいない。
 だが、俺はそうしなかった。


 三日間園に泊まり込みになったが、花子は回復した。寒くなって内蔵の機能が衰えたのが原因だったようだ。クマ舎の室内運動場に暖房を設置して部屋を暖かくすると、花子は元気になった。
 一晩様子を見て大丈夫だと判断すると、夜が白む中、家へ帰った。ずっと花子の傍に居たから体がくたくただった。だけど足が勝手に紅の部屋へ向かう。
 こんな時間に行ってもまだ寝ている、迷惑だと思うのに止まらなかった。
 シンと静まりかえった廊下に立って、呼び鈴を鳴らした。ピンポンと部屋の中から聞こえて反応を待つが音が帰ってこない。
(…まさか、いないなんてことねぇよな?)
 あれほどの良い女だ。他の男が放っておく筈がなかった。さーっと血の気が下がり、焦燥感から立て続けに呼び鈴を鳴らした。
 ――ドンドンドン!
「紅、俺だ。開けてくれ」
 誰もいないかもしれない部屋のドアを叩き続ける。その内、ごそっと中から音が聞こえて、心底ホッとした。人の近づいて来る気配がある。…いや、安心するのはまだ早い。
(中に男がいるかもしれねぇ…)
「なに…?」
 ようやく開いたドアをガッと開いた。驚いた紅がよろけて、裸足のまま外に出てきた。
「ちょっと、なにするのよ」
「紅!」
 迷惑そうな紅に構わず、俺は力いっぱい抱き締めた。
「紅…紅…っ」
 久しぶりに腕の中に抱いた体に。紅の髪の香りに疲れが溶けていく。
(やっぱ俺には紅しかいねぇ…)
 そう思ったのに、紅は「臭い」と言って、俺を突き離そうとした。
(あ)
 三日間風呂に入って無かった。それに花子の傍にいたから獣臭いはずだ。
(だからってなんだ!)
 後には引けない気持ちになって紅の唇に吸い付いた。ここで離れたら、おしまいな気がした。
(絶対に離さねぇ)
「い…やだ、やめてよっ…!」
 逃げる紅の肩を掴んで叫んだ。
「紅! 俺はお前じゃなきゃあ駄目なんだ! お前がいねぇと生きていけねぇ。俺の傍にいてくれ!」
「バカ!」
 パンッと頬が鳴った。また殴られた。強引に迫った後悔と悲しみが押し寄せる。目の前が暗くなりかけたが、どんっと胸に衝撃を感じた。
 紅だ。紅が、俺の胸に飛び込んできた。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったのよ! 私はそう言ってくれるだけで良かったのよ…。バカ…」
 後は言葉にならなかった。震える紅の肩を思い切り抱き締める。逃げない紅に安堵が広がる。背中に紅の腕が回って、突き上げるように衝動が込み上げた。
 紅の顎を掬い上げ、激しく口吻ける。
「アスマ…」
 濡れた瞳で俺を見上げる。こんなにも紅が愛しいと感じた事はなかった。今すぐ抱きたい。だが、そうするには俺はあまりにも汚れすぎていた。
「く、紅…、悪いが風呂を貸してくれないか?」
 ここでこんなことを言うのはとんでもなくカッコ悪いと思ったが仕方なかった。一瞬ポカンとした紅が苦笑を浮かべる。
「…いいわよ。そんなところも含めてアスマを好きになったんだから」
『好き』
 紅の言葉に天にも昇る心地になった。
「紅、風呂から上がったら…その……いいか?」
 耳元でそっと聞くと、紅がまた「バカ」と毒づいた。


 汗に濡れた背中を後から抱き締めながら、俺は男としての充実感に満たされていた。
(凄かった…)
 俺は自分がここまでやれると思って無かったし、紅が付き合ってくれるとも思って無かった。紅の細く柔らかい腰を引き寄せる。
「アスマ…私…もう…」
 息を切らせながら言う紅のうなじに吸い付いた。
「分かってる。ただこうしてたいだけだ」
「……」
 後からで紅の表情は見えない。でもすっかり機嫌が良くなっているのは分かった。
 俺は紅を市内の高級レストランに誘った。


 目まぐるしく日々が過ぎて行った。最短の日取りで式場を押さえたら半年後だった。結納を済ませ、招待状を送る。披露宴の席を決め、ウエディングドレスを決めると、あっと言う間に当日が来た。
 俺は紅が泣くところを初めて見た。白い頬に涙の粒が転がる。泣いても紅は美しかった。
 二次会を終え、三次会に向かおうとしたところでカカシが挨拶に来た。
「イルカ先生が待ってるから帰るね。明日から新婚旅行デショ。二週間だったよね? 楽しんで」
「ああ。今日はありがとな」
「帰って来たらビックリするよ」
「あぁ?」
 なにか企んでる顔したカカシに聞き返したら、カカシは笑って手を振るだけだった。
 新婚旅行は紅のリクエストでスペインへ行った。


 




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