イルカ観察日記 7





「だから違うんです。イルカには何の落ち度もありません!」
 何度言っても通じなかった。
 俺を助けたと思い込んでいる男は、イルカが人を襲ったと言い張り、俺はそうじゃないと言い続けた。
「イルカはじゃれてただけです。放って置いてくれても、何の問題も無かった」
 二人の男から言い立てられて、園長は眉間に皺を寄せた。
「…だけどな、アスマ。お前が怪我をした事には変わりない。それに、いずれイルカは人間と距離を置かなければならない。それが今何じゃないのか? お前なら分かっているだろう?」
「ですが――」
 尚も言い募ろうとした俺に園長は命令を下した。
「アスマをイルカの担当から外す。シカマル、お前は引き続きイルカの面倒を見ろ。もう一人担当を付ける。アスマは花子の担当に戻れ」
「なっ…」
「以上だ」
 話は終わったとばかりに園長は事務所を出て行った。
 荷物を取りにトラ舎へ向かった。私物を段ボールに入れながら、イルカの記録を付けていた日記が出てきて、それは鞄の奥へ押し込んだ。表紙に付いたイルカの足跡を見るのが辛い。
 どうしてもイルカの様子が気になって見に行くと、俺の姿を見ると相変わらず走ってきた。
 ふるるるっ、ぷるっ
「…イルカ、叩かれたところは痛く無いか?」
 昨日のことはすっかり忘れてしまったのか、早く遊んで欲しそうに右へ左へ歩いた。
 ふるるっ
 イルカが強請るように見上げたが、もうイルカの檻を開ける鍵を持っていなかった。
 周囲に誰も居ないのを確認して、檻の隙間から腕を入れた。イルカがフンフンと手の匂いを嗅いで、頭を向けた。その上に手の平を置いて撫でてやった。
「前はすっぽり手の中に収まったのになぁ」
 ふるるっ、ふるるるるっ
 イルカの嬉しそうな声に目が熱くなる。
「イルカ、元気でな」
 腕を引き抜くと、イルカが不思議そうな顔をした。小さく首を傾げて俺を見上げる。
(じゃあな)
 最後の言葉は胸の中だけで言って、トラ舎を後にした。


 気持ちが沈んで、平日だが紅を呼び出した。居酒屋に入って、ジョッキを空にしていく度に鬱積が溢れだした。
(納得いかねぇ)
 まったく納得いかなかった。
 こんな予定ではなかった。イルカを徐々に一人に慣れさせて、それから離れるつもりだった。
(イルカはまだ子供なんだ!)
 イルカを殴ったヤツに怒りが込み上げる。
(イルカはただ遊んでいただけなのに)
 イルカの哀しげな目を思い出して胸が重くなった。
 イルカは傷付かなかっただろうか? また人が怖くなってないだろうか?
「…ちくしょう!」
「アスマ、今日は飲み過ぎだよ。もう帰ろう?」
 紅の手がジョッキを持つ手を掴んだ。
「紅ぃ…、俺、イルカの担当から外れちまった…」
「そう…」
 それしか言わない俺の背中を紅は何度も撫でた。優しい手だった。だが、胸にぽっかり穴が開いていく。寂しい。イルカに会えなくて寂しい。
(胸が痛くて堪らねぇ…)
「さ、帰ろう?」
 立ち上がった紅の腕を引いた。早急にその穴を誰かに埋めて貰わなくてはならない。
「紅、俺と結婚してくれ」
 パシッと白い光が目の前で弾けた。
「アスマ、それ本気で言ってるの?」
「……」
 本気も本気だった。だが紅の怒りを感じて、何も言えないでいると、「最低」と言い残して紅は店を出て行った。ついさっきまで、あんなに優しかったのに。
(俺は何をやらかした?)
 ジンと頬が熱くなって、引っ叩かれたんだと気付いた。
「俺…、何か悪いことしたか?」
 俺達を見ていた店主に聞いた。店主は空いたグラスを片付けながら、小さく肩を上げただけだった。


 何故か人生が悪い方向へ転がっている気がした。イルカとは会えない。紅はあれからいくら電話しても出てくれなかった。メールも返ってこない。いままで喧嘩したことはあったが、こんな風に無視されるのは初めてだった。
(なんでだ?)
 紅は頭を冷やす時間を置いているだけだろうか?
 それとも別れたいと思ってるのだろうか?
 紅の気持ちが分からなくてイライラした。
(忙しいだけかもしれない。きっとそうだ)
 気を静めようと良い方に考えた。だが夜になっても返信は無かった。
 散々迷って紅の部屋へ行くことにした。普段平日に行くことはないから変に思うかもしれない。理由がいる。部屋を訪れる理由が。
 俺は柄にもなく花を買った。持ちなれない小さな花束を手にして、紅に花を渡すのは初めてだと気付いた。気恥ずかしい。こんなもん、男が持つもんじゃない。だが手ぶらでは行きにくい。
 コンコン、とドアをノックして、中の反応を待った。
「どちら様?」
「紅、俺だ」
 ドアの向こうで音がして、鍵を開ける音がした。ドアを開けてくれる気配に俺は心底ホッとしながら紅が現れるのを待った。薄く開いたドアから明かりが溢れて紅が顔を出した。
「何か用?」
「用ってお前…」
 予想外の反応に、もくもくと頭の中に雲が湧いて、言葉が出なくなった。
(あ、そうだ)
「は、花を持ってきたんだ。その、綺麗だったから」
 紅の視線が花に落ちる。
「そう」
 差し出すと紅は花を受け取り、顔に近づけた。
「良い香り」
「そうだろう?」
 後に続く言葉が出てこない。
「ありがとう」
 次に紅が何か言ってくれるのを待っていると、紅は花束だけを持ってドアを閉めた。
「………」
 暗い廊下に取り残されて、頭の中が真っ白になる。随分長い間立ち尽くしたが、再びドアが開くことは無かった。
 家に帰って、何か悪かったのか検証を始めた。そもそもどこからいけなかったのか。紅に叩かれたのは、結婚しようと言ったからだ。
(紅は俺と結婚する気がなかったのか?)
 今まで言葉にした事は無かったが、時期が来ればそうなるものと思っていた。
 酒の席で言ったのが悪かったかもしれない。そうだ、紅はあの時俺に向かって「最低」と言っていた。今更ながらその言葉がずしりと胸に響いて、イルカで出来た穴の隣にならんだ。
(そうだ…、イルカ…)
 哀しい声で鳴いていた。担当から外れたからトラ舎に入ることは無いが、近くは通りかかった。クマ舎の周囲を掃除しようと箒を持って歩いている時、ふるるるっと聞こえて来た。視線を向ければ、イルカが室外運動場から俺を見上げていた。俺を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた。
 ふるるるっ、ふるるるっ。
 遊んでくれとイルカが声を上げていた。だが俺はそのままイルカの前を通り過ぎた。後からピスピスと寂しげな鼻の音が聞こえてきた。
(すまん。イルカ…)
「あぁ…」
 俺は自分が駄目な人間のような気がしてきて、布団に倒れ込んだ。なにもする気になれない。
(紅…、イルカ…)
 一人と一頭の存在が胸の中でぐるぐる渦巻く。どちらも俺にとって大切な存在だった。……だが、
(イルカと距離を置いた方が良い…)
 俺だって分かっていた。イルカとずっと一緒に居られない。もっと大きくなれば、イルカにその気が無くても人を死なせる可能性だってある。別れがあんな形になってしまったのが悔やまれるが、仕方ない。離れるしかないのだ。
(イルカ…)
 決して見捨てる訳じゃない。傍に居なくても、ずっと気に掛けている。
「あー…」
 別れがこんなに辛いとは。いっそ嫁にでも行ってくれれば良かった。伴侶がいれば心配じゃないのに。
 ぽっかり開いた胸の中に、寂しげなイルカが見えた。


 次の日から園の仕事が終われば、毎日紅の部屋へ通った。このまま終わりにしたくない。花は気に入ったみたいだったから、必ず持って行った。紅は部屋に入れてくれなかったけど、三日経った時、「どうしてアナタのことを叩いたか分かる?」と聞いた。
 何か答えなければと気持ちは焦るが正直なところ、分かってなかった。
「…お、俺がプロポーズしたからか?」
 パタンとドアがしまった。せっかくのチャンスをしくじってしまった。
「く、紅! また明日来るから!」
 だんだん自分のしていることがストーカーのように思えた。
 ――別れたがっている女と別れたくない男。
 そんな構図が浮かび上がって、わっと頭を掻き毟った。
(考えなければ…)
 紅はヒントをくれた。どうして叩いたのか聞いたのだ。
(俺がプロポーズしたからじゃなかった…!)
 そこに一縷の望みを感じて、少し浮かれた。きっとまだ嫌われていない。完全には、と言う意味でだが。
 日中の仕事をこなしながら、あれこれ考えた。
・酔って言ったのが悪かった。
・いきなり言ったのが悪かった。
・居酒屋で言ったのが悪かった。
 女にとって一生に一度の事だ。もっとちゃんとしたレストランで言った方が良かったのかもしれない。考えてみれば紅をまだ俺の家族に会わせていなかった。おやじとお袋はもういないが、姉貴がいる。ちゃんと紹介して、結婚を前提にお付き合いする期間も必要だろうか?
 女の気持ちってのは今ひとつ分からない。
(動物なら、互いが気に入れば即結婚なんだがなぁ…)
 イルカの両親は仲睦まじかった。隣り合ったトラ舎で見合いをさせて、一緒の舎に移してからは寄り添う二頭の姿が良く見られた。
 こんな風に動物を基準で考えるのがいけないんだろうか。


 




text top
top