イルカ観察日記 6





十月一日 イルカ生後百二十八日目

 室外運動場へ続くドアを開けて、イルカを外で遊ばせた。整備しておいた運動場には落ち葉と枯れ木を用意してある。
 寝室に慣れるのに二日掛かったが、外は好奇心が勝るのかすぐに遊びだした。疲れると、体を横たえて日向ぼっこしていた。
 このまま何事も無ければ、来週にもここでの公開を始める予定だ。
十月十日 イルカ生後百三十八日目

 イルカの一般展示が始まった。報道でも告知されたから、開園前から入場待ちの列が出来た。
 開園すると寝室にいてもトラ舎を囲む人の声が聞こえた。
 外への扉を開けると、イルカは駆け出そうとして躊躇した。チラリと顔を見せたイルカに、観客から大歓声が上がったのだ。今まで狭い柵の中で一般公開していた時よりも、遙かに沢山の人がトラ舎を囲っていた。
 それを異変と思ったのか、イルカが後退って俺を見上げた。
 すぐに引っ込んでしまったイルカに今度は落胆の声が上がる。
「なんでもないよ。いつもどおり遊んでこい」
 しばらく目を合わせていると、イルカはもう一度外を見て、そろそろと出て行った。
 呼ばれる自分の名前に不思議そうに首を傾げる。イルカは枝を拾ってトラ舎の近くで遊び始めると、すぐに観客のことを忘れた。元気に遊び回るイルカの姿に観客の笑顔が広がる。
 イルカが居てくれて良かったと思った。
 イルカが産まれてきてくれて良かった。


十一月二日 イルカ生後百六十日目

 寒くなってイルカの体毛が冬毛に変わった。顔の周りの毛も伸びて、大人のトラの風格を見せ始めた。
 食事は一日二回。骨付きの肉と鶏肉を与える。日が暮れて寝室に戻ってきたイルカは、肉が置いてあるのを見て嬉しそうに駆けていった。力の付いた顎で上手く肉を裂いて食べている。
「アスマさん、藁が届いてましたよ」
 振り返ると、シカマルが藁の束を肩に担いで来ていた。
「ああ、サンキュ」
 受け取って寝室の中に運んだ。古い藁を掻き集めて、新しい藁を敷いていく。せっせと敷いていると、餌を食べ終えたイルカが隣にやってきた。
 イルカは藁の匂いが好きだ。乾いた藁の上へぴょんと跳ねると「ふるる」と声を上げた。「ふるる」はイルカが機嫌の良い時の鳴き声だ。
「そうか、嬉しいか」
 ふるる、ふるるるる。
 口を開いたイルカが笑っているように見えた。立ち上がると、イルカは遊んで欲しそうに前足を上げた。イルカが後ろ足で立つと、胸まで前足が届く。
「ホントにデカくなったなぁ」
 大人のトラの大きさにはまだまだだが、あの小さかった仔トラがよくここまで成長してくれた。もうイルカの体を持ち上げるのは困難で、人が接する限界の時期に来ていた。
 通常トラは一歳半で親離れするようだが、俺は人間だからそろそろイルカと離れなければならないだろう。
「…俺がお前の親ならあと一年は一緒にいれたのになぁ」
 いや、雄トラは子育てをしないから、イルカの姿を見ることも無かったかもしれない。
(だったら、俺は人間で良かったか…?)
 そんなことを考えていたら、イルカの爪が服に引っ掛かった。
「お、ちょっと待ってろ」
 外してやろうとイルカの前足を掴むが、持ち上げるのは一苦労だ。そのうちぐいっとイルカが前足を引いた。
 地面は砂で足場が悪く、ざくっと窪みを踏みしめ体がよろけた。そこに更にイルカに引かれて、どっと転けた。
「うわっ」
 ふるるっ!
 はしゃいだイルカが上に乗っかり、顔を舐めてくる。
「コラ、イルカ! 重い――」
「アスマさん!」
 シカマルの声が聞こえて、なんでもないと声を掛けるより早く緊急サイレンが鳴った。沢山の足音が近づき、イルカの悲痛な声が聞こえた。
(イルカ?)
 急いで爪を外して体を起こそうとしたが、それより早く檻の外に引き摺り出されていた。
 茫然として、何が起こったのか分からない。
 柵に残っていた男がモップを振り上げ、イルカを威嚇していた。イルカは咆哮を上げたが、しっぽと耳を垂れて部屋の隅に逃げようとしている。
「おい、止めろ! イルカを殴るな!」
 かぁっと頭に血が上って怒鳴りつけたが、檻の外に出てきた男に怒鳴り返された。
「なに言ってるんですか! 襲われ掛けたんですよ!」
「違う! イルカにそんなつもりはねぇ!」
「…でも、アスマさん、血が出てますよ」
(え…)
 シカマルに指摘されて俯くと、服が破れ、その上にポタポタと血が落ちた。手で顎を拭えば血が付いてくる。
「こんなのはなんでもねぇ。ちょっと爪が当たっただけだ」
「とにかく医務室へ。…それから、このことは園長に報告します」
 ぐっと唇を噛んだ。どんな些細な傷であれ、動物との接触で怪我をした場合は報告義務がある。
 促されて立ち上がり、医務室へと向かいながら振り返ると、イルカが哀しい目でこっちを見ていた。


 




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