イルカ観察日記 4





七月二十六日 イルカ生後六十一日目

 接待当日。いつもどおりイルカの世話をしたが、ふと思いついてブラッシングしてやった。毛並みを綺麗にしてやろう。
 初めてみるブラシにイルカが興味津々にやって来た。体を撫でてやると、くすぐったいのかイルカは転げ回った。
「コラ、大人しくしねぇか」
 転がって後ろ足を跳ね上げてくるイルカの腹を掻き混ぜた。ブラシを持つ手に歯を立てられたが、顎に力が無く甘噛み程度だ。万一これから来る奴をイルカが噛んでも大丈夫だろう。
 昼を過ぎる頃、連絡を受けて事務所へソイツを迎えに行った。
 そして驚いた。そこに立っていたのは、はたけカカシだ。驚いたのは向こうも同じらしく目を丸くする。
「あれ? アスマ?」
「カカシか?」
「うわぁ、久しぶりだーね」
 この間延びしたしゃべり方。学生の頃と変わってない。
 カカシとは同じ大学で、俺は生物学部、カカシは経済学部と学部は違ったが、授業の空き時間がよく重なり、一緒にいることが多かった。
(…だが、こんなに明るいヤツだったか?)
 内心首を傾げながら、隣に居たヤツに視線を向けると、
「こちら、海野さん」
「こ、こんにちは」
「はぁ、どうも」
 園長が居れば、ブッ叩かれそうな返事だ。
 俺達よりは年下だろうか。凡庸とした容貌は学生の頃のカカシなら付き合わなかったタイプだろう。
(どういう関係だ?)
 不思議に思っていると、カカシが催促した。
「早くイルカを見せてよ!」
 その瞬間、何故か『海野』が顔を赤らめた。鼻筋を横切る大きな傷が赤く染まる。あれは目立つだろうなと見ていると、カカシがずいっと視界を遮った。何故か目が据わっている。
「アスマ、早くして」
 低い声音にコイツが寄付をしてくれる来客だったことを思いだした。
「ああ、こっちだ」
 外へ促すと、二人は連れだって歩き出した。園を案内しながらイルカの元へ向かう。二人の服装はカジュアルで、とても『視察』に来た雰囲気では無かった。傍に居ると居心地が悪くなる。
 そう、二人はまるでデートをしているようだった。
「見てみて。あそこにゾウがいるよ」
「ほんとだ。大きいですね」
「こっちにはキリン!」
「わぁ、首が長い」
(お前は構って欲しい子供か!)
 心の中で思わずカカシにツッコんだ。園ではよく見かける光景だ。ただし親子連れでだが。
 こっそり振り返ると、カカシは男の手首を引いていた。
(これは間違い無ねぇ…)
 さっき俺は男を学生の頃のカカシなら付き合わなかったタイプの人間だと評したが、それはもちろん人間としてだ。恋人としてじゃない。
 カカシのクールな顔立ちと雰囲気は女を引きつけた。取っ替えひっ替えしていたのは知っていたが、まさか男に走るとは…。
(…ま、俺には関係ねぇ)
 人の嗜好はそれぞれだ。
 イルカの部屋に二人を入れた。イルカは一人で寂しかったのか、ピスピス鼻を鳴らしていた。俺を見て、駆け足でやってくる。
「うわぁ、可愛い!」
 声を上げたのは海野の方だった。そんな海野をカカシはニコニコ見守っている。
「ネ、触ってもいーい?」
「ああ。ただ歯と爪には気を付けてくれ」
「はい」
 返事したのは海野の方で目をキラキラさせてイルカに両腕を伸ばした。イルカの方も初めての人間に怯えるかと思ったが、ふんふん男の匂いを嗅いで、抱いて欲しそうに後ろ足で立った。そして服に爪を立てて、勝手によじ登ってしまった。
「あっ! どうしよう…」
「構わねぇからしっかり抱いてやってくれ」
「はい」
 イルカは男の肩まで登ると鼻先を首筋に押し付けた。
「わっ、くすぐったい!」
「わぁ、カワイイ…」
 笑い声を上げる男にカカシがウットリ呟いた。どっちがなんて聞きたくもない。
「イルカ先生、気を付けてね!」
 更によじ登ろうとするイルカ(トラ)にカカシが声を掛けた。
「イルカ先生?」
「あ、ウン。彼、イルカって名前なの。オレの恋人だーよ」
 さっきから気に掛かっていた事を、カカシはさらっと言った。
「可愛いデショ?」
 男相手にどう返事しろと?
「…お前、卒業後どうしてたんだ? 確か親父の会社に入ったよな…?」
 話題を変えると、カカシは気にする風でもなく話し出した。
 俺の実家は会社を経営していた。そこそこデカイ。木の葉グループと言えば知らないものはいないだろう。
 この園も元々は公立だったが、経営不振から民間に競売に出されてグループが買い取った。その辺の話はややこしいから割愛するが、とにかくカカシは卒業前から唾を付けられ、形ばかりの面接を受けて入社した。
 本社は都内だ。ここからはかなり離れている。飛ばされでもしたのか。
「ああ、辞めた」
「辞めたぁ?」
「ウン。だってあの会社、転勤や時間外労働が多いんだもん。イルカ先生といる時間が無くなっちゃう。今は自分で会社やってるんだ。近くに越してきたんだーよ。アスマも県内デショ? また呑みに行こう」
「ああ。いいな」
 国内有数の企業をあっさり辞めたカカシにも驚いたが、他人に無関心だったカカシを、こうまで変えた人間のイルカにも驚いた。
 それにしても人間のイルカは只者ではなかった。俺達が話し込んでいる間に、すっかりイルカ(トラ)と打ち解けていた。
 あんなに興奮したイルカ(トラ)を初めて見た。イルカ(人間)が紐の先に丸めたタオルを結び付け、床の上を走らせるとイルカ(トラ)が大はしゃぎで追い掛けた。離れた所でもぞもぞ動かすと、イルカ(トラ)は尻をプリプリ振ってから飛び掛かった。
「あははっ、上手いぞ。それっ」
 イルカ(人間)がタオルの塊を跳ね上げると、イルカ(トラ)が宙を舞った。
「す、すげぇな」
 思わず感嘆の声を上げると、カカシが得意げに鼻先を上げた。
「イルカ先生は保父さんなんだーよ。子供の扱いなんてお手の物だよ!」
「そうか。…にしても同じ名前ってややこしいな」
「いいじゃない。可愛い名前なんだから。あ、オレもトラの名前に応募したんだよ。『イルカ』って書いて。やっぱ良い名前だから『イルカ』で応募した人が多かったのかな?」
(お前か!)
 思わずカカシの胸ぐらを掴んで揺さぶってやりたい衝動に駆られたが我慢した。理由を聞かれて、一枚しかなかった応募用紙を引いたことを知られたくない。
 やがてイルカ(トラ)は遊び疲れたのか、イルカ(人間)の膝の上で眠ってしまった。
「重いだろう? そのまま下ろしていいぞ」
「あ、はい」
 イルカ(人間)はそうっとイルカ(トラ)を下ろして背中を撫でた。そしていつから撮っていたのかデジカメをイルカ(トラ)の寝顔に向けた。
 足音を忍ばせてこっちに来ると、カカシに向かってにっこり笑った。イルカ(人間)の手がイルカ(トラ)に引っ掻かれて赤い筋が出来ていた。
「おい、大丈夫か? 手が――」
 刹那、足の甲に激痛を感じて息が止まった。カカシの奴、踏みつけやがった。
「イルカセンセ、ダイジョーブ? 手が赤くなってるよ?」
「平気です。このぐらいなんでもありません」
「そう? でもおうちに帰ったら薬塗ってあげるね」
「はい、ありがとうございます。…アスマさん?」
「なんでもねぇ。ちょっと躓いただけだ」
 どれだけ狭量なんだとか、一緒に住んでるのかとか頭の中を駆け巡ったが、足の痛みと共に飲み込んだ。代わりに寄付金をがっぽりふんだくってやると決意した。
「また来るね」
 日が暮れるとカカシはイルカの手を引いて帰って行った。
「いつか子供達を連れて来てあげたいな」
 そう話すイルカの声が聞こえた。
「ウン。きっと喜ぶんじゃない?」
「でもお金が…」
「あー、そうだーね。いっそここを買い取っちゃおうか……それで十二歳未満の子を無料にして……」
「……、……」
 どんどん声が遠ざかっていく。
 アイツ、一体幾ら儲けてんだ?



 




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