イルカ観察日記 2
六月三日 仔トラ生後八日目
今日から仔トラの日記を付けることにした。
仔トラはアムールトラの雄。母は木の葉動物園にいたトラだったが、父は風の動物園から繁殖目的で借り受けていたトラだった。父トラは母トラが身籠もったのを確認して、元の動物園に戻された。
今、木の葉動物園にいるトラは仔トラ一頭だけだった。
仔トラに寄せられる期待は大きい。産まれたばかりの生き物はトラに限らず動物園では花形となる。新聞でも仔トラの様子は取り上げられ、全国から問い合わせが来ているらしい。
中でも関心が高いのは仔トラの名前だ。名前は一般公募で決められることになった。その方が動物園の宣伝になる。動物園の運営状況を改善したい園長の策だった。
仔トラの一日寝ているか、ミルクを強請るかのどちらかだった。
うぎゃぅ、うぎゃぅと目を覚ました仔トラに呼ばれて保育器に近寄った。目はまだ開いていない仔トラは、保育器のふたを開ける音に驚いてビクッと体を竦ませた。怯える様子にまた昨日の繰り返しかと思ったが、手の匂いを嗅がせると擦り寄ってきた。
「んぎゃー」
猫と赤ん坊を足して二で割った様な鳴き声を上げてメシを催促する。
「よしよし。すぐ用意するから待ってろよ」
手を引き抜くと、仔トラは一際大きな声で鳴いた。そして保育器の中をウロウロ歩き回る姿に、母トラを探していたのかと気付いた。
「んぎゃーっ、んぎゃーっ」
「なんだ? ここにいるだろ?」
腹の下に手を入れて仔トラを抱き上げた。仔トラはおいて行かれまいとでもするように前足で腕にしがみ付く。その必死な様子に哺乳瓶を置くと強く頭を撫でた。
大丈夫だ。ちゃんと傍に居る。
仔トラが鳴き止んだのを見計らって哺乳瓶の口を近づけると、仔トラはすぐに飲み出した。んぐんぐ音を立てて飲み続ける仔トラにほっと安堵した。もう授乳を嫌がったりしないだろう。
全てを飲み終えるとペット用のシートの上でおしっこをさせた。お尻も撫でてやると、まだヨタヨタする足で踏ん張る。うんちの状態は良く、腹の具合は良さそうだ。
「んなーっ、んなーっ」
仔トラを保育器に戻してシートを片付けると、ケースの中から呼ばれた。目は見えていないが、音のする方向から判断してこっちに来ようとしていた。
保育器の透明なケースに前足を掛けて、ぱんぱんに膨らんだ腹を見せる。
仔トラはデベソだった。
六月十一日 仔トラ生後十六日目
仔トラの目が開いた。瞳の色は緑がかった黄色。ちゃんと見えているようで、顔の前で指を動かすと目で追った。ついでに、とうっ!とばかりに飛び掛かられて、生えたばかりの乳歯で齧り付かれた。
まだ顎の力が無いから痛くはないが、やんちゃになりそうな気配に、これからは目が離せないなと思った。
明日はコイツの名前が決まる日だ。この一週間で随分応募が来ていた。世間の仔トラへの関心は高く、HPのアクセス数もぐんと伸びているらしい。
名前を決める抽選も園内で一般公開されるから、きっと来場者が増えるだろう。
届いた応募用紙を見ると、『虎太(こた)』とか『虎太郎(こたろう)』が多かった。『虎』の字を『琥』とした格好良いのや、『虎鉄(こてつ)』なんて男らしいのもある。
「良い名前引いてやるからな」
(虎太郎…)
抽選の大役は飼育員である俺に任されていた。もう俺の頭の中では、コイツの名前は『虎太郎』に決まっていた。
最近ミルクの回数が減って一度に飲む量が増えてきた。起きている時間も長くなってきたから、大きめの籠を用意して、日中は遊べるようにしてやろう。
六月十二日 仔トラ生後十七日目
いよいよ仔トラの名前が決まる日だ。用意された特設会場の前にはたくさんの人が集まっていた。仔トラはまだ免疫力が弱く外に出られない為、姿を見せることが出来ないのに有り難いことだ。
会場の真ん中には、応募用紙がぎっしり詰まった透明なケースが用意されていた。タタタタタ、と音楽が流れてケースの中に手を入れた。ぐるんと大きく一掻きして、
(これだ! 『虎太郎』来い!)
一枚の紙を引き抜いた。進行役の女性に紙を渡す。
「ハイ、決まりましたー! 仔トラ君の名前は、イ、イル…? え? イルカ…?」
(は? 今なんつった?)
どこの世界にわざわざトラにイルカと名付ける動物園がある。言い淀んだ進行役に待ったを掛けようとしたが、怪訝な顔から笑顔に戻った進行役は大きな声で言い切った。
「トラの名前はイルカです! 可愛い名前ですね!」
一瞬会場がざわっとなったが、進行役に言い切られて、パチパチと疎らに拍手が湧き起こった。それがやがて喝采となる。
こうして仔トラの名前は『イルカ』に決まってしまった。園長に言っても、「決まったもんは仕方ない」で終わってしまった。それより園長は仔トラを使った新しいグッズを作ることで頭がいっぱいだ。
あとで応募用紙をひっくり返してみると、千通近くあった応募用紙の中で『イルカ』と書かれたものはなかった。つまりは俺が引いた、あの一枚だけ…。
(俺のくじ運って…)
頭を抱えたが、当の『イルカ』は無頓着だった。
「お前の名前は『イルカ』に決まったぞ」
こしこしと頭を撫でると、『イルカ』は遊んで貰えると思ったのか四肢を使ってしがみ付いてきた。
「イルカ」
鼻先をちょんちょん突くとくわっと口を開けて、小さな牙を見せた。
「イルカ」
(ああ、決まっちまったもんはしょうがねぇ)
気を取り直してイルカを抱き上げ、イルカが中で遊べる大きな籠を探しに行った。
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