イルカ観察日記 1
園長に呼ばれてトラ舎に行くと、生後七日の小さなトラが保育器の中で蠢いていた。
そういや昨日だったか産後間もないトラが死んだと言っていたか。コイツはその母トラの子供だろう。
「…どうしたんですか、コイツ」
良く見ると顔にガーゼが貼ってあった。
「ミルクをやる時に人の手を嫌がってな。弾みで膝の上から落ちて顔を傷付けたらしい。以来、人を恐れてミルクを飲まなくなってしまった」
「はぁ…」
それでこんなに弱っているのか。
自分で食えない動物は、幾ら人が手を尽くしてもやがて死ぬ。
(まだこんなに小せぇのになぁ…)
気の毒に眺めていると、園長が言った。
「アスマ、悪いが今日からお前がこの子の担当をしてくれ」
「は? オレには熊の花子が…。それにトラは専門外です。世話したことなんて無――」
「花子の世話は他の者にやらせる。経験は実践で積め。死なせるな。いいな」
「だったら違うヤツに…って、園長!」
園長は言いたい事だけ言うと、トラ舎を出て行った。後に仔トラと二人残される。
「はぁ…、マジかよ?」
呟いても応えてくれる者はいない。
保育器の中で仔トラが蠢いていた。
園長の言っていた事は本当だった。仔トラは全くミルクを飲まない。腹が減っているはずなのに、哺乳瓶の口を近づけても顔を背けるばかりだ。
どうしたものかと思っても、園ではトラの出産が初めてで、聞ける者がいなかった。獣医を呼ぼうにも、今日はカバの健康診断で手の空いてる者がいない。
そもそも木の葉動物園は民間の動物園で、経営不振に陥り人手が足りなかった。公立の動物園と違い毎年決まった予算が振り込まれることはなく、むしろグループの事業部から見れば切り捨てたい部署の一つだろう。
途方に暮れる間も仔トラがぎゃあぎゃあ鳴き声を上げる。
俺は仔トラが産まれた動物園が無いか調べた。動物園には『ブリーディングローン』と言って、繁殖期に入った動物を貸し借りする制度がある。きっと人工保育で産まれた赤ちゃんがいるはずだ。検索すると、何軒か見つかった。
早速電話を掛けて聞けば、祝いとお悔やみの言葉と共に親切に教えてくれた。
最後に読むと良いと教えて貰った文献をメモに控えると、礼を言って電話を切った。
とにかく、仔トラにミルクをやらねば。
意を決してミルクを温め直すと保育器に向かった。仔トラは保育器の中で、鳴き声を上げながら歩き回っていた。
ふたを開けて中に手を入れると、一丁前に牙を剥いた。まだ歯が生えてないし、小さいから何の迫力も無いが。
ちょうど良いとばかりに開いた口に哺乳瓶の口を近づけた。顔を背けようとするから首根っこを掴んで動けなくした。さっき教えられた『とにかく哺乳瓶の口を押し込め』を実行するべく、怒って開いた口の中に乳首を入れた。
やったと思ったが、次の瞬間前足で手首を押されて哺乳瓶が逸れた。太い前足をじたばたさせる仔トラの力は思ったより強い。しかも爪が刺さって痛かった。
「うぎゃあ、うぎゃぁ」
人間の赤ん坊の様な声を上げて、全身で抵抗する仔トラに手を焼いた。
「いいから飲め。腹減ってんだろ」
再度仔トラの首を押さえて哺乳瓶の口を押し込んだ。今度は外れないように深く押し込むが、仔トラは嫌がって舌で押し出そうとする。
だが舌が白く染まると、それが美味しいものだと気付いたのか、ジュッジュッと音を立ててミルクを吸い出した。
(やれやれ)
やっと一安心だと思ったが、仔トラは半分も飲まない内にぺっと口を吐き出した。
泣き声を上げて四肢をばたつかせると、ヨタヨタしながら保育器の中を歩き回った。それからは何度近づけても飲もうとしない。
ミルクを与えるのを諦めると、綿花を濡らして仔トラの体の下に手を入れて前足を持ち上げた。排尿を促すべく仔トラの股間を撫でてやるが、足をジタバタさせるものだから上手くいかない。
「おい、大人しくしろ」
「ぅぎゃあーっ」
仔トラはまるで俺が悪者かのような声を上げて嫌がった。飼育員がもう一人いれば、足を押さえて貰うんだが。
ふと思いついて前足を下ろすとしっぽごと尻を掴んだ。そうして腰を固定すると、足の間から綿花を入れて股間を撫でた。
尻を押さえた手に抵抗する力を感じるが、今度は上手くいって綿花が黄色く染まった。
(よしよし)
気を良くしてオシッコが止まるのを待つが、なかなか止まらない。気が付けば綿花からオシッコが滴り、下に敷いていたタオルを濡らしていた。
「…ま、どうせ後から変えなきゃなんねぇんだからいいか」
仔トラは俺にオシッコをさせられたのは不本意だったのか耳を垂れてしわい顔をしていた。
気を取り直して新しい綿花で尻を撫でてやると、仔トラは腹を壊していたのか下痢だった…。
仔トラを別の箱に移して保育器を綺麗にしていると獣医がやって来たので下痢だったことを伝えて薬を調合して貰った。
鼻の傷は思っていたよりも深く、獣医が薬を塗るのを鳴いて嫌がった。鼻筋を横切る傷は恐らく痕が残るだろう。
聞けば仔トラは産まれた時に母トラから初乳を貰ったらしい。初乳には仔トラに必要な抗体や栄養分が含まれているからその点では安心した。上手くやれば健康なトラに育つだろう。…上手くやればだが。
綺麗になった保育器に仔トラを戻して、インターネットを使って文献を取り寄せる手配をした。
仔トラはずっと鳴いて保育器の中を歩き回っている。もしかして腹が減っているのかと思ったが近寄ると逃げた。
ミルクは大体四時間おきだと聞いたが、さっき飲まなかったからもっと早くにやった方が良いだろうか?
分からないことだらけだ。
夜になると保育器ごと宿直室へ移動した。勤務時間が過ぎたからといって交代してくれる人間はいない。
(しばらくは園に泊まりか…)
布団を敷いて明かりを消した。
「あー、紅に会いてぇ…」
柔らかい胸が恋しかった。
仔トラは相変わらずミルクを飲まない。仔トラの世話は女の方が向いてるんじゃないかと思った。
疲労感が押し寄せて、瞼を閉じるとすぐに眠気が押し寄せた。
仔トラも鳴き疲れたのか静かに眠っていた。
が、すぐに起こされた。仔トラが騒がしく鳴く。
目覚ましをセットしていたが、眠ってからまだ一時間も経っていなかった。
「なんだ? 腹が減ったのか?」
ぎゃあぎゃあ鳴く仔トラに話し掛けた。
「ちょっと待ってろ」
湯を沸かすとミルクを入れた。だがこのままでは熱すぎるから哺乳瓶毎水に浸けて冷やした。その間も仔トラはヨタヨタ保育器の中を歩き回る。
ようやくミルクの温度が下がって、保育器を開けると哺乳瓶の口を仔トラに向けた。
鳴いて開いた口に乳首を突っ込むが嫌がって顔を背ける。頭を押さえて再び口の中に入れると今度は軽く吸い付いた。
いけるかと思ったが、二、三口吸うと仔トラは舌で乳首を舌で押し返した。そしてさっき以上に激しい泣き声を上げる。
「はぁ…、いい加減に飲めよ」
弱り果てて頭を掻いた。まったくどうすりゃいいんだ。
困っている間に仔トラは鳴き疲れたのかぐったり蹲っていた。
「…おい、大丈夫か?」
背中を撫でてやっても顔を上げなかった。
そして二時間後、仔トラはまた鳴き出した。寝不足の頭に仔トラの声が染み入る。無駄になるかもしれないと思いつつ、またミルクを用意した。
たった一日のことだが、仔トラの面倒を見るのに疲れ果てていた。
(俺には無理だ…。明日交代を申し出よう)
用意したミルクを仔トラの口に付ける。すると仔トラは嫌がるでもなく動かなくなった。ちょいちょいと哺乳瓶の口で唇を突いても変化が無い。
ひたひたとヤバイんじゃないかと言う思いが忍び寄って来た。仔トラが弱ってきている。
持ち上げると仔トラの手足は冷たく、体が小さく震えていた。慌ててタオルを被せて温めた。
それでも足りない気がして腕に抱くとウロウロと宿直室を歩き回った。時計を見れば深夜二時。こんな時間じゃ獣医もいなかった。
(ヤバイ…ヤバイ…)
抱いた上から布団を被せて体温が逃げないようにした。タオル越しに震える振動が伝わってくる。
「死ぬな…」
早く朝が来るのを願った。
むに、と頬を押されて意識が浮上した。ふんふんと鼻息が口許に触れる。今度はむにっと瞼を押された。いつの間にか眠っていたらしい。ハッと目を開けると、視界いっぱいに毛が広がっていた。
次いで後ろ足が踏み出そうとしているのが見えて、仔トラの体を持ち上げた。
「うぁーう、うあー、うあー」
手足をばたつかせて仔トラが鳴いた。心なしか鳴き声が柔らかくなっている気がした。それに元気だ。
「うぁーぅ」
(メシか?)
そんな気がして、仔トラを布団の上に下ろしてミルクを作りに行った。離れると、仔トラが激しく鳴いた。
時計を見ると六時二十分。窓の外はすでに明るくなっていた。
ミルクの用意が出来ると、仔トラを抱えて哺乳瓶の口許を近づけた。仔トラは顔を背けたが、抱いた体を小さく揺らしてあやすと静かになった。
「ほら、飲め」
ちょんちょんと唇を突けば、乳首の先からミルクが垂れて仔トラの唇を濡らした。それを指で掬って口の中に押し込んだ。ざらりとした舌の上に擦り付けると、仔トラが味わうように口を動かした。
(あ…)
引き抜いた指にミルクを垂らして、もう一度口の中に押し込む。すると仔トラが指に吸い付いた。物足りないと言わんばかりにちゅうちゅう吸い付く。
指と入れ替えに哺乳瓶の口を入れると仔トラは乳首に吸い付いた。
それはもの凄い勢いで、一心にミルクを飲み続ける。みるみる仔トラの腹が膨れてぱんぱんになり、やがて哺乳瓶が空になってもまだ吸っていた。
「よし、終わったぞ」
仔トラの口から乳首を引き抜いた。満足した仔トラはそのまま寝入理想になったが、尻を持ち上げて排泄をさせた。あどけない寝顔に胸が熱くなる。一仕事やり終えた気持ちでいっぱいだったが、人の足音が聞こえて来た。また一日が始まる。
仔トラを保育器に戻してタオルを被せると、空になった哺乳瓶を洗浄機に入れた。
園長がやって来て仔トラの様子を見ると、満足げに去って行った。
仔トラの世話を断ろうなんて気持ちは、もうどこにも残って無かった。
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