覚えてない夜 6





 任務に出て、里に帰り着いたのは深夜だった。
 はーっと溜息を吐くと夜道に白い息が消えていく。
 視線を上げた先にある明かりの消えた部屋に、眠ったイルカ先生の顔を思い浮かべて、もひとつ息を吐いた。
 ――今なら会える。
(気付かれなかったら大丈夫。)
 そんな自分に都合のいい言い訳をしながら壁に足をつける。
 普段なら難なく登れる壁も、疲弊した体では今にも足裏が剥がれそうで仕方なく手もくっつけた。
 辺りはすっかり暗闇に包まれている。時折、蛍光灯の切れかけた街灯がじりじりと乾いた音を立て、スローモーションのように黒い影が壁に伸びた。
(こんなことしてるのがイルカ先生に見つかったら嫌われるかも・・・)
 頭の中で警告する声が微かに過ぎったが、今更だと打ち消した。
 だって、もうすでに嫌われている。更に嫌われたってどうってことないよ。
 それよりもイルカ先生の顔が見たい。
 窓に鍵は掛かってなく、起きる気配が無いのを確認してサンダルを脱ぐと部屋の中に身を滑り込ませた。
 畳を軋ませないようにそっと忍び寄り、ベッドの傍らに座り込んだ。
 布団に包まって眠る姿に、緊張して凝り固まっていた体が弛緩していく。
 黒い瞳は瞼に隠れ、そこにはあの日見た怒りも悲しみもなく、その寝顔はただ穏やかだ。この前みたいに睨みつけられることもない。
 うっすら開いた唇があどけなく、精悍な顔立ちを幼く見せていた。
(かわいい・・・)
 腕の中に閉じ込めてぎゅうとして頬擦りしたいようなかわいさ。
 こんな衝動が湧き上がるのを不思議に思う。
 イルカ先生にだけ。
 イルカ先生にだけ今まで誰にも感じたことがない感情で胸が疼く。
 痛くて苦しい。
 だけど傍にいたい。

 不意に指先にむず痒さを感じて見てみれば細い黒糸がゆるく絡み付いていた。それをそっと手の中に握りこんだ。イルカ先生のだと思えば、一本の髪の毛ですら振り払えない。
 ちょっとだけ、とまくらの上に広がった髪を撫ぜてみる。溶けかけた氷をなぞるようにするすると滑る冷たさが指先に伝わってくる。
 ふと思いついて薄く開いた口元に手を翳してみた。すると熱く湿った息が当たって指先がじんと痺れた。
 目を閉じてその感覚を追えば、その僅かな温かさに体が震えそうになる。
(触りたいなぁ)
 唇に触れそうになる指先を寸でのところで止める。
 そうすることは許されていない。
 イルカ先生が心を許したのはオレじゃ無い。
 ほんとはとっくに分かってた。
 イルカ先生はいくら頼んでも『上忍』としか呼んでくれない。
 オレの前で酒を飲まない。
 そうやって壁を作られていた。
 そのくせ優しくしてくれて。
 残酷なヒト。
 でも責める事は出来ない。自業自得だ。
 きっとあの朝からイルカ先生の中でオレはもう切り捨てられた。
 それでも一緒に過ごしてくれたのはなぜだろう?
 そこに希望をみいだしてはいけないのだろうか・・・・。

「ん・・・・」
 寝返りを打つ気配に弾かれたように手を引いた。
 至近距離すぎて、今動けば気付かれるかもしれない。
 ごそごそと仰向けになってふとんを引き上げる。すーっと大きく息を吐き出し体の力を抜くのに、また寝入ったんだと息を吐こうとして――イルカ先生がうっすらと目を開けた。
 完全に気配を消してイルカ先生が眼を閉じるのを待つ。
(お願い。気付かないで)
 さっきは今更だと思ったのに、これ以上嫌われたらと思うと怖くて仕方が無い。 
(もう消えてなくなりたい)
 イルカ先生がいらないんだったらこんな『オレ』はオレもいらない。

 まだ夢の中にいるのかイルカ先生がぼんやりと天井を見ている。それから何かに気付いたように眉を寄せると瞳がゆるゆると宙を彷徨出だした。
 何かを探すように。
 濡れたような黒い瞳がゆっくりこちらに向けられる。
(もう終わりだ)
 イルカ先生の顔が怒りに変わるのを見たくなくて目を逸した。
 敵に首を刎ねられる瞬間だってこんな絶望的な気持ちにはならない。
 項垂れてイルカ先生の最後の言葉を待っていると、

「――カカシさん・・・?」

 掠れた声で名前を呼ばれて、信じられない思いで目を開けた。イルカ先生がやわらかく微笑んでいる。

「カカシさん・・・どっか行っちゃったのかと思いました」

 ごそごそと布団の中から手を出すとオレの手を掴んで自分の頬に押し当てると零れるような笑みを見せた。

(ああ、夢を見てるんだね・・・)

 イルカ先生の熱い手がしっかりとオレの手を掴んで離さない。
 オレを呼んだんじゃないことは分かってる。
 一度もそんな風に呼ばれたことがなかったから。
 胸の中が小波のように揺れてどっと溢れそうになり、押さえようにも目頭が熱くなる。
 夢の中のオレはアナタに触れることを許されてるの?
 名前を呼んで貰えるの?
 笑いかけて貰えるの?
 なんて羨ましい。

 時が止まればいいのに。

「どうしたんですか?どっか痛い?」
 心配そうにこっちを見るイルカ先生に、「痛い」と頷いた。
 オレを見てなくてもいい。今だけでも優しくされたかった。
 手を引かれて、首筋に顔をうずめるとイルカ先生がそっと頭を抱きかかえてくれた。
 嬉しい。でも同時に途轍もなく、寂しい。
 イルカ先生の体温に包まれながら、胸が痛みに裂けた。
「大丈夫。傍にいるから――」
 イルカ先生の優しい声が随分遠くに聞こえた。



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