覚えてない夜 7
気が付けば、体の下には柔らかい布団。
(やば・・・、寝ちゃったんだ)
気は焦ったが、布団の心地よさに体の方に力が入らない。
イルカ先生のだと思えば尚更。
目を閉じたまま辺りを窺えば、背後にイルカ先生の気配。
起きているらしい。
目が醒めたらオレがいてさぞかし吃驚しただろう。
そのときのイルカ先生の顔を思い浮かべて、ツキンと胸に氷柱が刺さった。
それなのに布団に上げてくれるなんて。
(そんなんだからオレに付け込まれるんだ。)
自棄気味に思った。
気付かれてない事を良いことに、眠ったフリをしたまま静かに時が流れた。
(ずっとこのままで・・・)
そう願っても容赦なく陽が昇る。
萌葱色に染まっていく部屋にあの日の朝を思い出していた。
イルカ先生に初めて会った朝。
あの時オレがイルカ先生を忘れてなかったら、きっと今頃もっと違った関係が二人の間にあったのだろう。
眠る前、甘える仕草を見せたイルカ先生。
そしてオレの事を甘やかしたイルカ先生。
戻りたい。あの日に。
イルカ先生の心を取り戻したい。
せめて思い出すことが出来たら――・・。
そしたらいくらだってイルカ先生の望むオレになれるのに。
そうなれるならなんだってするのに。
完全に陽が昇る頃、イルカ先生が身じろいでベッドが軋んだ。
(行ってしまう)
このまま眠ったフリを続ければ、またいつでも都合の良いときに出て行けと言わんばかりに置いていかれるのは目に見えている。
行かないで。
行かないで。
行かないで。
喉が張り裂けそうなほど叫び声を上げたいのに声に出来ない。
激しく拒絶したイルカ先生を思い出して何も出来なくなる。
あんな風に怒るイルカ先生はもう見たくない。
(――どうしたら・・・・。)
焦りはしても良い案など何もない。
不意に髪が風に凪いだ。
さわさわと毛先が揺れる。
(あ・・、ちがう)
風じゃない。イルカ先生だ。
イルカ先生が髪を撫ぜている。決してオレには触れないように、でもやんわりと。何度も何度も。
(どうして・・・?)
なんでこんなこと。
オレを受け入れてくれないなら、もう優しくしないで欲しい。
でないとオレはいつまでも期待してしまう。
いつかイルカ先生がオレの事を好きになってくれるんじゃないかと――。
「・・・っ!」
突然、氷を押し付けられたような冷たさが額に走って体が震えた。
振り返ればイルカ先生の手が逃げていく。
「起きてたんですか・・・。すいませんでした」
イルカ先生が力なく呟いた。
視線を上げれば目が合う前にイルカ先生が立てた膝に顔を隠した。
そのことにじくじくと胸が痛んだが、それより。
「なにしてるの?」
逃げた手を捕まえてみれば驚くほど冷たい。慌てて起き上がってイルカ先生に布団を被せた。
「どうして・・・・」
寝ているイルカ先生はあんなに温かかったのに。
今は肩も背中も髪も足先まで、どこもかしこも冷え切っている。
「そんなにオレのこと嫌い?」
オレが居たから。目が醒めて居たのがオレだったからイルカ先生は布団から抜け出した。
優しくしたいのに、温めたいのに。
イルカ先生を凍えさせる事しかできない。
「イルカせんせ・・・」
膝を抱えて蹲るイルカ先生を揺さぶれば、拒絶するように体を縮込めて内に閉じこもる。早く温めようと外側を擦るオレの手は勝手にさせたまま。
――このヒトはもうオレの事はスキにならない。
そんな考えがやけに現実味を持って走り抜けたが、認められない。
「ねぇ・・、オレじゃ駄目なの?イルカ先生のこと忘れちゃったオレより、オレの方がイルカ先生のことたくさん知ってる。たくさん傍にいた。オレの方がずっとイルカ先生のことが好きだよ。それでも駄目なの?」
「そんなの・・・」
くぐもった声が蹲った膝の間から聞こえた。
「え?」
「そんなの信じない。うそつきのくせに」
「ウソじゃないよ。ほんとに――」
「嘘だったじゃないか。好きだって抱いたくせに!ずっと傍に居てくれるって言ったくせにっ!全部っ、全部忘れて!俺のこと軽蔑して・・・。嫌そうな目で見て・・・」
胸を抉るような悲しい声が途切れた。
いつのことを言っているのかすぐに思い至った。
あの日の朝、イルカ先生を知らなかったからオレはそんな風に見てた。
自分のことを棚に上げたオレの軽薄な態度がイルカ先生を酷く傷付けていた。
「・・・・ごめんなさい」
「あやまるな!謝ってなんか欲しくない。でも、もう――・・あんな思いは・・・嫌だ」
やっと。
やっと分かった。
何故、イルカ先生があれほど頑なだったのか。
それでもオレが傍に居る事を許したのか。
優しくしてくれたのか。
「イルカ先生・・・怖かったんだね」
そういう関係になって、またオレに冷たい目で見られるのが。
心を預けて忘れられてしまうのが。
オレもそうだった。
イルカ先生に嫌われるのが怖かった。
だったら・・・。
それでも傍に居てくれたのは――。
「イルカセンセ・・・許して。もう二度と忘れないから。信じて・・・」
「・・・・・・・・・」
オレのこの言葉がどれほど軽くイルカ先生に響いているのか聞かなくても分かる。
「だったら術で縛っていいから。またオレが忘れたら殺していいから」
そういえばそんな術があった。約束を違えば命を失うやつが。
バババッと印を結び始めると、
「アホか!」
顔を上げたイルカ先生にべしっと手を叩かれた。
「術はもう結構です!」
「へ!?」
結構って・・・ナニ?
どういう意味だろうと思ったが、今にも泣き出しそうなイルカ先生に霧散した。
「あ、泣かないで」
「誰のせいだと・・・」
「うん。でも泣かないで」
そっと引き寄せると膝を立てたまま、こてっと胸の中に収まった。
そしてまた顔を膝の上に隠す。
「イルカせんせ、そうしてて良いから聞いてね」
きっとこれは最後のチャンス。
ぎゅうと強く抱きしめてその存在を確かめた。
すると体の奥底から愛しさが後から後から湧いてくる。
焼けるような熱を伴って。
「オレはイルカ先生のこと二度と忘れないよ。イルカ先生はオレの胸の奥深くに居て、忘れようにも忘れられません」
恭しく黒髪に唇を押し付けると、イルカ先生が小さく震えた。
「それにね。この黒髪も、手も、肩も、膝も・・・全部スキ」
言いながらその箇所に唇を押し当てると、これでもかってくらいにイルカ先生が膝を抱えて小さくなろうとする。
「それから・・・ほっぺたもおでこも・・・」
膝で隠れてるところにむりむり唇を押し付けたら、いやいやするように頭を振った。
その仕草にどっと体温が上がる。
(どうしよ。かわいくてたまんない)
「イルカ先生、顔見せて?」
覗き込んだら動きを止めたままで。
「それからねぇ・・・耳も好き」
言いながら近づいたら、イルカ先生がばっと耳を押さえて顔を上げた。
すかさず頬を捉えて固定する。
さっきまであんなに冷たかったのに、顔も耳も熱く火照って真っ赤になっている。
「かわいい」
「あ・・・あの・・!」
イルカ先生がおろおろと視線を彷徨わせる。
「それからね。目が好き」
行動を予測して、先にぎゅっと閉じられた瞼に口吻ける。
「この傷も好き」
鼻傷に唇で触れようとすると顔を引くから追いかけてむちーっと押し付けた。赤くなってる鼻先にも。
「それからね・・・それから・・・」
「も、もうっ・・・わかっ・・・」
「いーえ!まだ伝わってません!」
それに大事なところが残ってる。
きっともう最初の夜に触れてしまった。でもこれがオレにとって始めての――。
何か言おうと開きかけた下唇に軽く唇を押し当てた。すぐに離してイルカ先生を見つめると泣きそうな顔でオレを凝視している。
不安でいっぱいになっているイルカ先生の頬を撫ぜ、顔に掛かった髪を耳の後ろに掛けてやりながら、ゆっくり近づいて――キスした。
柔らかな、それでいて弾力のある唇を角度を変えて何度も何度も啄ばんだ。
安心したイルカ先生の体から力が抜け落ちるまで。
「イルカ先生、アナタが好きです」
目を閉じたイルカ先生がこくんと頷いた。
目が醒めて飛び込んできたのは萌葱色の光と見慣れた天井。
床に伸びた窓の影から大分陽が傾いたのが伺える。
イルカ先生の布団に包まれて、くふふと笑いが漏れた。
(もうすぐ帰ってくる)
仕事に行く前に、「ここに居てくださいね」とオレを布団に押し込めると、何度も念を押しながら振り返ったイルカ先生の顔を思い出して幸せな気持ちで満たされる。
気を静めて家の外を探ってみる。
イルカ先生を探してチャクラを広げる。
(あ・・!)
帰って来た。
走ってくるイルカ先生の気配が近づいてくる。
(玄関まで迎えに行こ)
ぐっと体を起こせばまだ本調子じゃないけれど、イルカ先生に会えると思うと力が湧いてくる。
(早く、早く・・・)
外に飛び出したい気持ちを抑えて、玄関が開く瞬間を今か今かと待ちかまえる。
なのに扉の前まで来たイルカ先生が足踏みするから、
「おかえり、イルカセンセ」
玄関を開けて迎え入れれば、イルカ先生が泣きそうな顔で胸に飛び込んできた。