覚えてない夜 5
「閉まりかけのドアに手を入れる人がいますか!」
怒りながらも指の付け根に消毒液を塗ってくれるイルカ先生は、やっぱり面倒見が良い人だった。
帰って来たときは無視するからどうしようかと思ったけど――ちょろい。
こんなケガはどうってことなかったけど、大げさに痛がったらあっさり部屋の中に入れてくれた。
(なんて人がいい)
これが里の忍なんだろうか。
いささか拍子抜けしながら昨日追い出された部屋に入った。
手甲を外して現れた青黒く染まった指の付け根にイルカ先生が青くなった。
「すいませんでした」
消え入りそうな声で呟くと救急箱を持ってきて指を丹念に調べていく。1本1本指を上げ下げし、ひっくり返しては手の平を押していく。
(まいったな)
――こんな顔させるつもりじゃなかったのに。
きっかけが欲しかっただけだ。無視するから。ただこっちを見て欲しくて態と手を抜かなかった。
それなのにこんなに思いつめた表情をして。
それに――・・・。
(ほんと、まいった)
何度も否定した。気の迷いだと心を摩り替えようとして、――出来なかった。
こうしてイルカ先生の気がこっちに向けられていると思うと嬉しい。熱心に触れられると、冷たかった指先にじんじんと熱が篭りだす。そのうち押されるたびに手首から肘に抜けるような痺れが走って――。
「もう大丈夫。なんとも無いから」
手を引っ込めた。これ以上はヤバい。
本人にそのつもりはなさそうだけど、刺激されるというか、そそられるというか、煽られるというか。
ただ手を触られてるだけなのに、そうされると『もっとしてほしい』というより、いっそのこと押し倒してやりたくなるような欲が頭を擡げ始める。が、昨日怒らせたことを思い出してその先は思い留まる。
「ほんと、折れたりしてないし」
「でも・・・」
「や、ほんとーに!それにあれ、態と手を入れたからそんなに気にしなーいで」
あんまり深刻そうな顔をするからつい白状してしまい、――怒られた。
「イルカ先生、おかわりお願いしてもいいですか?」
これ見よがしに包帯を巻いた方の手で茶碗を差し出せば、口をへの字に曲げながらもイルカ先生がご飯をよそってくれる。
予想以上の展開にほぐした焼き魚を口に運びながらほくそえんだ。
例えその目が自業自得だと言っていても気にしない。
治療が終わったところで、ぐうっと鳴った腹に頭を掻いていたら、イルカ先生が「おわびに」とごはんを作ってくれた。イルカ先生はどこまでも面倒見が良かった。
「イルカ先生のごはんおいしいね」
「・・・・なんですか・・・その『先生』って」
「んー?だって先生なんでしょ?」
「・・・調べたんですか?」
こっちを見る目に警戒するような色が混ざる。
「いーえー。アスマから聞きました」
「はたけ上忍はアスマさんとお知り合いなんですか?」
「腐れ縁ってやつで・・・付き合いだけは長いよ」
「そうですか」
アスマと聞いてほっとした顔をするのが気に喰わない。
「で?」
「はい?」
「なんでアスマが『さん』付けで、オレが『上忍』なわけ?今日は敬語で話してくるし」
「それは・・・。はたけ上忍が――」
「カカシ」
「は?」
「カカシって呼んでよ」
そう言えば何故かイルカ先生が眉を寄せた。それから「できません」と。
「私は中忍ですし、はたけ上忍が上忍と分かった今、呼び捨てにすることもタメ口をきくことも出来ません」
「それだったらアスマは?」
「アスマさんとは――幼い頃から知っていて・・・上忍とお呼びするのも今更で・・・・」
「ふぅーん。それじゃあさ、あの日は?オレのこと名前で呼んでたの?――あの日・・・オレとアナタの間に何があったの?」
話の流れに乗ってそれとなく聞いたが、イルカ先生は箸を置いた。
「そのことについては話したくありません」
「どうして?」
「忘れてしまったのなら――・・・もういいじゃないですか」
刹那、「いやだ!」と思ったけど、悲しそうな顔をされてはそれ以上聞けなかった。突付きすぎて追い出されるのも怖い。
以来、そのことは二人の間で禁句になった。
それから何度もイルカ先生を待ち伏せした。
最初はしぶしぶだったけど、今では諦めたのかすんなり家に入れてくれる。具材を持って行けばそれを調理してくれるし、時々オレが来る事を見越してか魚を2匹買って来ることもある。聞けば否定されたけど、赤くなってたからきっとオレの分だ。
一緒に過ごすうちにイルカ先生のいろんなことを知った。
テレビはクイズ番組が好き。前にイルカ先生より先に答えを言ったら睨まれた。結構負けず嫌いだ。
ドキュメンタリーなんかも好きで動物ものには弱い。たまにテレビ見ながら泣きそうになるけど絶対泣かない。でも目が真っ赤になって鼻をずるずるさせるからバレバレだった。
肉より魚が好きで、混ぜごはんは駄目。
目薬を差すときは必ず口が開いてて、爪を切る時は何故か中指から。
温泉が好きだけど滅多に行けないから温泉のもとは常備してある。ちなみに一番のお気に入りは雲隠れの里にある星雲の湯。まだ一度も行った事がないと行っていたからいつか連れて行ってあげたい。
任務明けに寄れば風呂にも入らせてくれたし、イルカ先生もオレがいても風呂に入るようになった。
呼び方はあいかわらず『はたけ上忍』だったけど、口調は随分砕けて、前みたいに『俺』と言ったりする。
家に泊めてくれることはなかったけど、それでも随分イルカ先生に近づいた。
近づけたと思ってた。
テレビを見ていたらイルカ先生が風呂から上がった。のぼせたのか赤い顔のまま首からタオルを掛けて、下ろした髪の先からぽたぽたと雫を垂らしている。
「貸して、オレにやらせて」
イルカ先生を座らせて肩に掛けていたタオルを取ると内側に髪を包むようにして纏め、滴っていた水分を吸わせた。それから空気を孕ませるようにしながら髪を拭いた。
「上手いですね」
「キモチイイ?」
それには答えずかくんと首を下げて、されるがまま俯いている。ちょっとエロいことを言わせてやろうとしたオレの思惑は見事に外れ、頭の中で舌を出した。
タオルを動かすたびに、洗い立ての髪から石鹸のいい香りがしてくる。
あらかた乾き、ぱさぱさと髪が音を立てる頃、ふとタオルを上げてみれば項が見えた。髪を掻き分けるようにして覗く首筋はけっして女のように細い物でもないのに、見ているとどうしようもなく、――愛しくて。
(抱きしめたい)
衝動のまま俯いた彼を引き寄せた。
「・・・はたけ上忍?それじゃあ髪は拭けないでしょ?」
やんわり胸を押し返され、彼が冗談で済ませようとしているのを感じた。それでも腕を離せないでいると彼が顔を上げた。
すぐ目の前に彼の漆黒の瞳と乾いた唇。
吸い寄せられるように顔を近づけると、肩をぐっと押し返された。
「やめてください」
明らかな拒絶。怒りの篭った目。
(どうして?)
背中に回していた手で後頭を押さえ引き寄せる。
「ちょっ、やめっ!」
抵抗は激しくなり、イルカ先生の突き上げた手が頬の肉を抉った。
「っつ!」
不意の痛みに腕が緩んだ瞬間、オレを突き飛ばすようにして離れた。
青ざめた表情で、それでもオレを睨みつける目は怒りに燃え滾っている。
「帰ってください」
「どうして?」
「帰れ」
「どうしてなの?」
何度聞いてもイルカ先生は「帰れ」としか言わない。それでつい、禁句になっていたことを口にしてしまった。
「一度はオレを受け入れてくれたんでしょ!好きになってくれたんでしょ!?ならどうしてっ―――」
今のオレを受け入れてくれないの?
「ああ、そうだよ!」
続く筈の言葉はイルカ先生の叫びにかき消された。
「バカみたいに・・・」
「バカだ俺」と繰り返し、自嘲気味に笑う。
「そうですよ。好きになったんです。初めて会ったばかりで言葉を交わして間もないというのに。それでも好きだったんだ。どうしようもなく。だから応えたんだ。求められて・・・そうなりたかったから。そうして欲しかったから。・・・・・好きだったんだ」
まるで血を吐くように一息に言い切ると、最後に静かに「帰れ」と呟いた。「もう2度と来るな」とも。
眩暈がした。強烈な告白に。
でもそれはオレにじゃない。あの日のオレに、だ。
オレは初めて失ったものの大きさを知った。