水たまり 3
なんだ、あいつ。
わざわざ甘ったるい匂いさせやがって。思い出すと鼻の奥に匂いが蘇って顔を顰めた。
しばらく帰ってこないようなことを言っておいて、翌日には帰ってきたカカシに驚いた。
だが、すぐに帰ってきたといってもする事は済ませてきたカカシに腹が立った。
任務だと分かっている。
でも匂いぐらい落として来いってんだ。「おい、イルカ。・・イルカ!」
「あ、悪い。なんだ?」
「お前、そんな親の仇みたいにハンコ付くなよ。机が割れる」
「あ」だんっと振り落とした腕を止めればハンコの下で書類が捩れていた。
割れこそしないものの、机はかなりの音を立てていたらしく、人の視線が集まっていた。「・・悪い」
「なんだ、無意識かよ。なんかあった?俺で良かったら話聞くけど?」
「いや、なんでも・・」無くはない。
だけど人には言えない。
押し黙ると、同僚はふぅっとため息を吐いて俺の手から書類を奪った。
代わりにこれをやれと封筒を渡される。「ハンコは俺がするから、お前は折って封筒に入れていって」
「うん、わかった」返事をすると同僚はにっと笑った。
少々苦笑しているものの目の奥は優しく、寄せられる好意が嬉しい。
静かになると人の目は離れて、いつもの職員室の風景に戻っていった。「ところで」
「ん?」同僚の潜めた声に耳を寄せる。
「・・・お前、はたけカカシと付き合ってんの?」
「な、な、なんで!?」声を上げると頭を押されて机に伏せた。
本の影に隠れて人の目から逃れる。 どっと汗を掻いて言葉に詰まった。
カカシとのことは隠してきた。
カカシとそうなってからは外で会わないようにしたし、一緒に歩いたことも無い。
なのに何故。
冷や汗を掻いていると、俺の頭を抑えていた同僚も伏せて顔を近づけた。「いや、なんか噂で聞いて。前はよく飲みに行ってたし、仲いいみたいから。それに最近、カカシさんがお前の部屋から出てくるの見たってヤツもいるし」
「誰だよ、そんな噂ながしてるの。付き合ってないよ。そりゃ、たまに泊まっていくことあるけど、なんかある訳ないだろ」ある訳ない。
それが俺みたいなもっさい中忍と外見ばかりはエリートのカカシさんとの関係を示す世間の常識で、泊まったことを完全に否定するより、なんでもないと言ったほうが真実味のあることだと思えた。
その証拠に同僚は「そっか」と納得して、書類にハンコを付き始める。
その事実につきんと胸が痛んだが、気づかぬフリして書類を折り続けた。作業は夜にまで及んでアカデミーを出たときには空に星が浮かんでいた。
最後まで残っていたのは俺と同僚だけで、二人で夜の校庭を門に向かって歩いていく。「今から帰って飯作るのかったりー。なっ?」
「うん」俺も同僚も一人暮らしだからその気持ちは良くわかった。
今から帰ってご飯を作って寝るまでのことを考えたら、食べて帰ったほうが遥かに楽だ。
だけど今、俺にはカカシがいる。
もしかしたらお腹を空かせているかもしれないと思うと、俺の足を家へと向かわせた。
作ったからといって、ちゃんと食べてもらえるとは限らないのに。「なぁ、これからどっか食べに行かね?」
「え?」
「安くて旨いとこ見つけたんだ。お前、刺身好きだろ?」誘われて、胸がきゅうとなった。
滅多に食べに行かない同僚だって俺の好みを知っていてくれる。
それが嬉しかった。
だけど同僚に答える前に思い浮かんだのはカカシの顔だった。
なんでかな。
きっと同僚と一緒にいた方が話も合うし楽しいだろうと思うのに、心が一緒にいたいと望むのはカカシの方だ。
ただ抱かれるだけで、話すことも、寄り添うこともしないのに。
俺が欲しいものは、カカシの傍では得られないのに。「な、行こうぜ」
「・・うん」思い浮かんだカカシの顔を掻き消した。
こんな時間だ。
カカシが俺の帰りを待っているとは思えない。
家には何もなかったし、ご飯を作ることをしないあの人はきっと外に出ている。
外、と思い浮かべて思い浮かんだのは、誰かの、――女の傍にいるカカシの姿。構いやしない。
カカシだって昨日・・。少しの間だけでも誰かの好意の中にいたかった。
例えそれが同僚のものでも。
恋しい人から得られないものを、擬似でいいから埋め合わせたかった。
ただ、それだけだったんだけど――。
「ちょっ、おいっ!よせって!」
「イルカ・・、イルカ――!」
「やめろって!」この状況を何だと思う。
木目の綺麗な天井を見上げながら押さえつけようとする体を必死に押しのける。
同僚に連れて来られた場所は個室の料亭で、本当にここが安いのかな?と思いつつ、お酒が旨いのと料理が美味しかったのですぐに忘れてしまい、いい感じで盃を重ねていくうちに、――気づいたらこうなっていた。
赤い顔して近寄ってきた同僚に押し倒されて、いつだったか経験のある光景が再現されていた。
だけど後の時と違って相手も中忍だ。
俺の抵抗もなかなかのもので乗っかられはしたものの、伸びてくる手は跳ね返した。
こいつ絶対酔ってる。「重いーっ」
「イルカ、好きなんだ!好きなんだよ!」叫ぶ同僚の声にびっくりして動きを止めた。
音量ではなく、その内容に。
苦しげに見下ろす顔が、真実だと告げている。
俺が大人しくすると、同僚も力を抜いた。
同僚の手が頬に伸び、暖かさに包まれる。「なんで・・?お前そんな素振りぜんぜん見せなかったじゃないか」
「当たり前だろ。お前ノーマルだし、その気なさそうだし。片思いでもいいかなって、それなら傍にいれるしって思ってたけど、はたけ上忍が現れて、あっという間にお前攫って、ご飯も食べに行けなくなって・・。付き合ってるって聞いたから諦めようと思ったけど、そうじゃないなら頼む。俺の傍にいてくれ。お前じゃないと駄目なんだ。頼む・・」
懇願されて呆然とする。
「どうして・・、どうして・・」
こいつが俺の欲しがってる言葉を言うんだろう。
この先どんなに望んでも、決してあの人の口から聞けそうに無い言葉を。「イルカ」
同僚の唇が頬に触れた。
抵抗しない俺を了と取ったのか同僚の行動は大胆になった。
愛撫するように唇が首筋に降り、舌で触れる。「イルカ」
顔を上げた同僚が頭を傾け、顔の上に降りてくる。
唇に息が触れ、重なり合おうとした時、「嫌だ」
顔を背けると目じりから熱い液体が零れた。
同僚を突き飛ばして起き上がる。「ごめん」
カバンを掴んで部屋を飛び出すとそのまま外に出た。
しばらく走って、追ってこないのを確認してから歩き始めた。
心臓がバクバクして胸が苦しい。なんでこうなるんだろう・・?
そう思うと、急に胃が引っくり返って道端にしゃがんだ。
溝に向かってげぇげぇ吐いて、それでもまだ飽き足らずに何度もえづく。
なにか俺から出ているのだろうか。
相手が見境無く遣りたがる様な、淫乱な何かが。「ふっ・・、えっ、えっ・・っぅ」
俺は普通に、誰かと恋したり出来ないのだろうか。
家に帰り着き、明かりの消えた窓にやはりなと思う。
待ってる訳ない。
カンカンと階段を上り、ドアに鍵を差し込む。
ドアを開いて目に映る暗い廊下にたまらなくなって、ドアに凭れ掛かると蹲った。
一人ぼっちで、寂しかった。
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