輪っか 10





 軽く買い物してからアパートに帰った。
久しぶりの我が家に気持ちを弾ませながら階段を上がる。ドアに鍵を差し込み開こうとすると、カカシさんが「あ!」と声を上げて開きかけたドアを押さえた。
「わっ、すいません!」
 一瞬間違えたと思った。誰か違う人の部屋を開けてしまった。
 それを先に気づいたカカシさんが止めてくれたんだと思ったが――、右を見て左を見る。ここは角部屋で、間違いようも無く俺の部屋だった。でもなんか凄く、違っていて欲しいような気がした。
「ごめんなさい、イルカ先生。ちょっと待ってて…。片付けてきます」
 慌てたカカシさんが俺を押し退けて中に入ろうとする。
(やっぱ俺の部屋なんだ!)
 カカシさんを押し返してドアを開けた。
「なんじゃ、こりゃあ!!」
 廊下から居間に散らばるゴミ、ゴミ、ゴミ!俺の部屋はゴミ溜めと化していた。
「なんですか!これ!」
「ゴメンナサイ!ゴメンナサイ!イルカ先生が今日帰ってくるなんて思ってなかったから…」
「そう言う問題じゃないでしょう!」
 雷を落とすとカカシさんが小さくなった。短絡的な自分を反省したことなど、すっかり忘れていた。
「…ゴメンナサイ」
 しょげるカカシさんの脇を通り過ぎて、中に入ろうとすると腕を取られた。
「待ってイルカ先生、片付けるから…」
「その間外で待ってろって言うんですか?俺だって寒いんです。中に入ります」
「……」
 今にも泣き出しそうなカカシさんの顔なんて、初めて見たかもしれない。内心言い過ぎたと動揺しつつも、寛げるはずの我が家の惨状に、カカシさんへの態度が冷たくなってしまった。でも仕方ないじゃないか。
(俺たちの部屋をこんなにして…!)
 ドカドカ部屋を突っ切ると窓をいう窓を開けた。生ゴミとヘンな匂いの混じった淀んだ空気を入れ替える。振り返るとカカシさんが一生懸命ゴミを拾っていた。
 大きなゴミ袋を用意して、俺もゴミを拾い始めるとカカシさんが寄ってくる。
「オレがするから、イルカ先生座ってて」
「早く片付けて窓を閉めたいんです」
「…うん。ごめんね」
 弱弱しい声で謝ると、丸い背中をいっそう丸める。
(一体どうしちゃったんだ?)
 全くもってカカシさんらしくない。畳の上には使い終わった割り箸や弁当の空き箱がいくつも転がり、足の裏はざらざらべたべたした。
 カカシさんの忍服も落ちてて、俺の着替えは毎日洗って持ってきてくれてたのに、どうして自分のは洗わなかったのか不思議になった。あんなにマメで綺麗好きだったカカシさんが、どうしてこんなに部屋を汚く出来るのか。――本人に聞くのが早い。
「どうしたんですか?カカシさん」
「…本当にごめんなさい」
「ごめんなさいじゃ、分からないです」
 俺が溜め息を吐くと、カカシさんがぽつりぽつりと話し始めた。
「…イルカ先生がいなくなって…最初は綺麗にしてたんだけど…、誰もいないのに、綺麗にしてるのが虚しくなってきて…。一人分のご飯を作るのも面倒で、作るのやめて…毎晩お弁当食べて……」
「…片付けるのも面倒になったんですか?」
 ううん、とカカシさんは首を横に振る。
「買ってきた袋に食べ終わった弁当箱を入れてね、あとで片付けようって下に置いたら、…何故かほっとしたんです。自分でもヘンだなって思ったんですけど…」
 眉間に深い皺が寄った。カカシさんの言うことは分かりそうで分からない。なんて声を掛けるか迷っていると、カカシさんはいっぱいになったゴミ袋の口を締めて外に運んだ。
 疲れきった背中が寂しそうだ。戻ってくると雑巾を固く絞って畳を拭いていく。ゴミがなくなると悪臭が収まり、俺は窓を閉めた。暖房をつけて、コタツも入れる。
 人の抜けた形に捲れた布団の隙間からオレンジ色の光が見えた。きっとそこはカカシさんの定位置
「………」
 寝室を振り返った。それで気づいたが、汚れていたのは居間までだった。寝室は、まるで使われていなかったかのように綺麗だ。
 ある疑惑に首を傾げていると、カカシさんが話し出した。
「オレ、今回のことでゴミ屋敷に住む人の気持ち分かったような気がします…。そこに物があることにホッとするんです。ゴミだけど、空っぽだった空間がゴミの分だけ埋まって、空っぽの面積が減っていって…。そうやって空間が埋まってくると、今度はゴミがあるから誰も居られないって…。反対なんだけど、誰も居ないからゴミがあるのに、人が居られない理由が出来て…。今回はイルカ先生入院してたけど、そうじゃなくて、…例えばイルカ先生が出て行ったりとかでオレが独りになったら、だからイルカ先生が居なくてもヘンじゃないって理由付けるんだろうなって…。イルカ先生が居ない間、そんなことばかり考えてました。…寂しさは人をおかしくする」
 最後は独り言のように呟いたカカシさんに、うわーと思った。容易に想像が出来る。独りでコタツに入ってゴミの山に囲まれるカカシさんが。
 絶対に駄目だ。
「…俺、絶対カカシさんより早く死ねませんね」
「えっ!」
 カカシさんが驚いて顔を上げた。
「それって…、それってイルカ先生、オレが死ぬまで傍にいてくれるってこと…?」
「そうですよ。当たり前じゃないですか、俺たち夫婦なんですから。カカシさんをあとに残すと不安だから、俺の方がカカシさんより長生きしますね!」
「……」
「…カカシさん?」
 ぽかん、と呆けるカカシさんに、次第に恥ずかしくなった。わざわざそんなこと言わなくても、俺の方が長生きしそうなものを。
 何も言わないカカシさんに決まり悪くなっていると、カカシさんの瞳からぽつりと涙が落ちた。それはぽつり、ぽつりと続けて落ちて、カカシさんの頬を濡らす。
「カカシさん!?」
 慌てて傍に寄ると、カカシさんは片手で顔を隠して俯いた。畳の上をぽたぽたと水が撥ねる。何がそんなにカカシさんを哀しくさせているのか。
「カカシさん、どうしたんですか?カカシさん?」
 背中を撫ぜると、カカシさんがしゃくり上げた。
「本当に?ずっと傍に居てくれる?」
「はい…?」
「…オレ達って、夫婦なの?」
「…!」
 思わぬ発言に心臓が止まった。それからゆっくり、細波が広がるようにカカシさんの言ったことが頭の中に浸透した。
(…違ってたのか?)
 幸福を取り上げられるかもしれない予感にぶるぶる震えた。
「だっ、だって、カカシさんプロポーズしてくれたじゃないですか」
「…ウン、した」
「それならもう夫婦じゃないですか!だからっ、だから…っ!」
 必死に言い募った。今更違うなんて言わせない。そんなこと言われたら、ショックで心臓が動かなくなる。哀しさと絶望で、息も吐けなくなる。
 ぎゅううぅぅぅとカカシさんの腕を掴んだ。カカシさん、カカシさん、と全身で呼びかける。
(違うって言わないで。俺を傍において)
 泣きそうになっていると、カカシさんが笑った。涙に濡れた顔で、たんぽぽの花みたいにふわぁと微笑む。
「なんだ、そうだったんだ」
 ぐしぐしと濡れた顔を拭きながら嬉しそうに笑った。
「…フラれたんだと思ってました。付き合うのは良いけど、結婚はいやなのかなって…」
「どうして!?」
「イルカ先生、あの時なにも言ってくれなかったから…」
「えっ!?そんなことないです!俺、ちゃんと言いました。カカシさんと結婚するって…」
「言ってないよ。イルカ先生、あの時泣きじゃくるばかりで…」
「そんなこと…」
 無いとは言い切れなかった。良く考えてみると、確かにカカシさんに返事した記憶が無い。でも言わなくたって、あの場で泣けば、了承って分かりそうなものを。
「それに通帳も突き返されたから」
「違います…!あれは家にあるのが怖いから、カカシさんが保管してくださいって意味で…。泣いたのも、嬉しかったからで…。俺はもう、あの時からカカシさんと結婚した気でいました」
「そうだったんだ…」
「皆にも、結婚したって言ったし…!」
「…ウン」
「お祝いしてくれるって…」
「…ウン」
「…カカシさん。カカシさんと俺は夫婦ですよね?」
「……」
 ウン、って言って欲しいのに、カカシさんは立ち上がると俺に背を向けた。
 一瞬不安になるが、ふすまの前に立つカカシさんに不安は疑心に変わった。ふすまを開けて奥を探り出すと、それは確信に変わった。
(今度は何だ!?またあんなところに通帳を隠してたんじゃないだろうな?)
 訝しんでいたら、引き抜かれた手は何も持っていなかった。
 いや、違う。手の内側に何か…。
「イルカ先生、これ…」
 俺の前に正座したカカシさんが小さな箱を差し出した。
 濃紺のビロードに包まれた小さな箱。ドラマなんかで見たことがある。
(…でも嘘だろ?だって俺、男だし…。)
 信じられない思いでその箱を凝視していると、カカシさんがぱかっと蓋を開けた。中にはふかふかのクッションに差し込まれた銀色の指輪が二つ。
「受け取ってくれますか?」
 カカシさんが俺を見つめた。俺の返事を待っている。
「……」
 目の前がゆらゆらした。ぱたぱたっと膝の上に水滴が落ちる。
「…ぅっ、…ひぐっ…ぐす…っ」
 懸命に返事をしようとしたけど駄目だった。喉が震えて上手く話せない。胸がいっぱいになりすぎて、溢れてくるのは嗚咽ばかりだった。
「イルカセンセ?」
「あい…っ」
 返事を促されて焦った。早く返事しないと、またカカシさんが誤解してしまう。
「あっ…うぅっ…、ふぇっ……かかひ、ひゃん…っ」
 なんとかしないと、と震える左手を差し出した。指を広げて、カカシさんに見せる。俺のめいっぱいの意思表示はちゃんと通じて、カカシさんが照れたように目を伏せた。
 ビロードの箱から指輪を一つ取り出すと、俺の手を掴む。
「えーっと、こんな時なんて言うんだっけ…?…健やかなる時も病める時も、ずっと一緒にいてください。…で、あってるかな?」
 言いながら、俺の太い指に指輪を通す。
 薬指の付け根で輝く指輪に、また涙が溢れた。
「似合ってます」
 カカシさんがはにかみながら誇らしげな笑顔を浮かべる。その手が膝の上でもじもじ動くのを見て、はっとした。
 俺もカカシさんの左手と指輪を手に取った。
「俺も、健やかなる時も、病める時も、ずっと、カカシさんの傍にいます」
 白く長い指に指輪を通す。お揃いに光る薬指の指輪に、俺とカカシさんは本当に夫婦になったんだと実感した。



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