輪っか 4
3日後、一般病棟へ移された。一人きりが骨身に沁みるほど寂しかった俺は、大勢の患者のいる病室に移されて嬉しかったが、同時に風邪を移さないか心配になった。それに高熱は下がったが昨日から咳が出て、コンコンと煩い。
ベッドごと移動してきた部屋は6人部屋で、俺は入り口付近に配置された。看護婦さんから貰ったマスクをしっかり付けて、同室の皆さんに挨拶をする。名前を言って風邪を引いていることを詫びたら、意外とあっさりと受け入れられた。
季節柄、皆風邪を引いたり引き終わったりで似たり寄ったりだったのだ。
「俺も先週やったし、気にすることないよ。空気清浄機も付いてるしな」
隣になったのは、ハシゴと名乗る同じ年頃の男だった。ひょろっと体つきは細く、大工の見習いだと言った。足場から落ちて骨折した、と包帯で巻かれて太くなった左足を指して笑う姿は人懐っこく、面倒見も良かった。カード差し込んで使うテレビの見方を教えてくれたり、苦しそうに咳き込んでいると看護婦さんを呼んでくれたりする。
ハシゴのところには毎日お母さんがやってきて、世話を焼いて帰った。ハシゴはいつも煩わしそうに追い返すけど、俺にはそれが羨ましかった。
「なあ、イルカは彼女とかいるの?」
ぼんやりと二人で同じ番組を見ているとハシゴが聞いてきた。
「え?ああ、うん。彼女って言うか…、もう結婚してるんだけど」
「えっ!?そうなの?イルカって奥手そうだから、まだ独りかと思ってたよ。…どうして彼女来ないの?仕事?」
「うん、今任務に出てて…。きっと俺が入院してるのも知らないと思う」
「そっか、大変だな。忍びの仕事ってのも」
「うん…、ハシゴは?ハシゴは付き合ってる人いるの?」
「んなもんいたら、ババァなんて来させねーよ。はぁー、いいなぁ、彼女。な、イルカの彼女ってどんなの?可愛い?」
「か、可愛いって言うか、すっごく綺麗な人なんだ。俺なんかには勿体無いぐらいで。それにすごく優しいし、強いし。上忍なんだ」
「へぇー。上忍ていやぁ木の葉のエリートじゃねぇか。すげーな、イルカの相手。でも夫婦喧嘩の時おっかなくね?コテンパンのボコボコにされねぇ?」
「ううん、喧嘩は俺の方が強いよ。カカシさん、俺に手は上げないから」
「え!じゃあ、イルカが殴ったりするの?」
「しない。クナイとか投げるけど全部避けてくれるから大丈夫。でも代わりに部屋がぼろぼろになって」
「じゃあ、今度喧嘩したときは俺を呼べよ。綺麗に直してやるから」
あははっと笑いあって話はカカシさんとの出会いへと移っていった。ハシゴは聞き上手で、話は面白いほど盛り上がった。
「もう、そんなに毎日来なくてもいいって言ってるだろぉ」
「そんなこと言ってもアンタ。心配で顔ぐらい見にきたいだろ。ねぇ、イルカちゃん」
イスに座ってシャリシャリとリンゴの皮を剥く背中が振り返った。同意を求められて頷くとハシゴが苦い顔をする。
「イルカ、ババァの言うことなんか相手しなくていーんだよ」
「なんてこと言うんだい、この子は!アンタの口の悪いのがイルカちゃんに移ったらどうすんだよ。はい、イルカちゃんもお食べ。甘くて美味しいよ」
差し出されたりんごを受け取る。しゃりっと歯を立てたリンゴはみずみずしく、甘みが舌の上に広がった。
「イルカ!餌付けされてんじゃねぇーよ!」
「でも美味しいよ?」
にっこり笑ったハシゴのお母さんがもう一個リンゴをくれる。ハシゴのお母さんもハシゴ同様面倒見が良く、自分の子供のように俺のことも可愛がってくれた。わいわいと賑やかに面会時間が過ぎていく。
そんな中、病室のドアが突然大きな音を立てて開いたので、皆飛び上がった。遅れて「廊下は走らない!!」と怒鳴る声が聞こえる。
「イルカセンセ!!」
飛び込んできたのはカカシさんで、あまりの形相に怖くなってリンゴを零してしまった。まだ帰ってくるのは先のはずだったのに、病気をしたのがバレてしまった。
「あ…、う」
喧嘩は俺の方が強いと言ったのはどこのどいつだ。じわっと目を潤ませて硬くなっていると、カカシさんが歩み寄って来た。
(お、怒られる…っ!)
「イルカセンセ…」
反射的に首を竦めるが、俺に訪れたのは優しい抱擁だった。
「可哀想に。一人で心細かったでしょう。オレの居ない間に倒れるほどの風邪を引くなんて…。ゴメンネ」
よしよしと背中を撫ぜられて気が緩んだ。優しい手につーんと鼻の奥が痛くなって泣きそうになる。
正直個室に入れられた3日間は寂しかったけど、こっちに移ってきてからはハシゴという友達も出来て楽しかった。向かいのおじいちゃんも構ってくれるし同僚もお見舞いに来てくれた。
だけどカカシさんに「寂しかったでしょう」と言われると、悲しみが扉を開いたように溢れかえって、ぎゅっとカカシさんにしがみ付いた。
「カカシさん…っ」
「もう大丈夫ですよ、傍にいるからね。こんなに痩せて…、食欲ないの?」
冷たい指先がすっと頬を撫ぜた。
「ずっとお粥だったから…。でも果物も食べられるようになったんです。さっきもリンゴ貰って」
あ、と思ってカカシさんの肩越しに隣を見た。するとハシゴとお母さんがぽかんとこっちを見ている。指差して『カカシさん』と言えば、それだけで俺から話を聞いていたハシゴは「あ、ああ」と言った。動揺が激しい。
当然だ。会わせることがないと思っていたからカカシさんを男だと説明していなかった。きっと綺麗なお姉ちゃんを想像していたに違いない。
ちょっと引いてる感じがしたけど、構わずカカシさんにハシゴを紹介した。
「カカシさん、ハシゴとお母さん。とてもお世話になったんです。リンゴもハシゴのお母さんが…」
俺を離して振り返ったカカシさんが二人に頭を下げた。
「どうもイルカがお世話になりまして」
普段呼ばれない呼び方をされてドキッとする。こんな風に俺のことで頭を下げてくれるカカシさんを見ていると、家族になった実感がぐぐぐっと沸いた。
俺が大切に思っている人を大切にしてくれるカカシさんに嬉しくなる。
「でも、アンタ…あれ、男の人だよねぇ…?」
お母さんの当然の疑問にハシゴが母親の袖を引いた。
「いいんだよ、そんなことわざわざ口にしなくても」
小声の遣り取りも忍びの耳にはよく届いて、カカシさんは小さく笑うと「失礼します」とカーテンを引いた。周りから遮断されて二人だけの世界になる。カーテンの向こうのハシゴ親子が気になったけど、なるようにしかならない。友達を失うかもしれない寂しさに胸がちくんとしたが、今はカカシさん、と腕を伸ばすとカカシさんの体が腕の中に収まった。
当然のように重なる唇を受け止めて舌を触れさせる。風邪をうつすかもと気になったのは、喉の奥から咳が込み上げてからだった。離れていかない体を押し返して、音を立てないように唇を離す。不満げな顔をしたカカシさんに、「うつるから」と言うと、うつらないと言い返された。
「予防接種してるもん」
そっと視線を逸らした。任務に支障をきたさないようにカカシさんは予防接種を毎年受けているが、今年は一緒に行こうと誘われて、忙しさを理由に断った。けっして注射が怖かったワケじゃない。
小さく咳をするとカカシさんが抱きしめるようにして背中を撫ぜた。肩に頬を乗せて背中に手を回すとくしゃと頭を撫ぜられる。
「お帰りなさい。早かったんですね」
「うん、向こうで連絡貰って早く終わらせて来ました」
「えっ!誰ですか、そんな連絡したの」
(そんなことしてカカシさんがケガでもしたらどうしてくれるんだ!)
くっと眉間に皺を寄せるとカカシさんが困ったように笑った。
「忍犬たちが教えてくれたんです。何かあったら連絡するように言いつけてましたから。オレの命令なの。怒らないでやって」
「い、いえ、そういうことなら…」
(なんだ、そうだったのか。)
全然気づかなかった。
知らない間に守られていた。独りだと思ったけど、遠く離れても俺はカカシさんに守られていた。
(これから先、もう俺は独りになることはないんだ。)
悟るように理解して、カカシさんという存在に強く惹かれた。