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 店の中を流れる曲がレコードに変わっていた。最近、あのピアニストを見ない。紅もそうだ。二人で他所の街へ移っていったのか。
 カカシは一人でグラスを傾けながら、ふっと笑みを浮かべた。
 先日バラの花束を抱えて帰って来たイルカが、屋敷に戻ると真っ直ぐにカカシの元へやって来て、文句を言ったのだ。
「小説家ってなんですか!」
 ああ、ナルト達に会ったのか、と思ったが、素知らぬ顔でやり過ごすと、イルカはプリプリ怒りながらキッチンへ入っていった。
 あの時の真っ赤に熟れた顔が忘れられない。何度も思い出しては、ひっそり笑った。
(あんな顔もするんだーね)
 カカシの知るイルカの顔は、冷たくカカシを無視する横顔か、セックスと時の苦しげな顔だ。本当はもっといろんな顔が見てみたい。
(…ナルト達の前なら、笑ったりもするんだろうか?)
 カカシはイルカが笑ったところを見たことが無い。カカシが居ないところで浮かべる小さな微笑みが、カカシの知る唯一のイルカの楽しげな顔だ。歯を見せて笑ったところが見てみたい。
(今度、ついて行ってみようかな…)
 こっそりと街に下りるイルカの後をつけようかと画策する。
(…いや、止めた方がいい……)
 楽しげなイルカを見れば、もっと苦しくなるだろうから。
 カランと氷が音を立てるグラスを置いて、今日は帰ろうと立ち上がった。すると、ドアが開いて見知った女が入ってきた。
 紅だ。カカシを見ると真っ直ぐに寄って来る。どこかやつれた雰囲気に、内心首を傾げながらもカカシはイスに座り直した。
「……どうかした?」
 思い詰めた様子にカカシが聞くと、紅は首を横に振った。
「ううん。なんでもないわ」
「そう? 最近来てなかったね。あのピアニストも見ないけど、辞めちゃったのかな」
「アスマよ。アスマって言うの、彼。ちょっと体調を崩してるだけ。すぐに元に戻るわ」
「ふぅん。…上手くいってるんだ? 一緒に暮らしてるの?」
「ええ」
 紅の口ぶりから、そうかと思って聞くと、紅はあっさり認めた。
(さて、どっちだろう…?)
 家畜にしているのか、それとも惚れてしまったのか。
 毎回エサを探すより、気に入った相手なら恋人になってしまった方が楽だ。吸血しなくても、とても自然に体液を摂取出来る。
「……スキなの?」
「そんなんじゃないわ。……カカシは? アナタにもそんな相手が居るんでしょう? 見たわよ。真っ赤なバラを抱えて歩いているの」
 からかう素振りを滲ませて紅が笑う。その吐息から、微かな匂いを感じてカカシは眉を寄せた。紅には気付かれない早さで元に戻したが、たぶん間違いないだろう。
 それより、バラを持っているところを見られたのは不味かった。
「ウン、そうなんだ。なかなか堕ちない相手だから、奮発しちゃった。なのにさぁ、バラだけ受け取って門前払いだよ。この街を去る時が来たら、夜這い掛けちゃおうかなぁ」
「……本気じゃないの?」
「ぜんぜん。ならないデショ、人間相手に」
 さも当然のように言うと、紅は目に見えてガッカリした。
「そうよね」
(誤魔化せた…?)
 遠くを見つめる紅は、すでに別の事を考えているようだった。
 なんとなく予想が付いて、カカシはそれ以上聞かなかった。
 紅はワインを一杯だけ飲み干すと帰って行った。
 紅から漂ってきた匂い、――それは腐臭だった。


 カカシはいつもより慎重に歩いて屋敷に戻った。途中、後をつけられていないか気を配り、遠回りまでした。
(面倒なことにならないと良いケド)
 恐らく今日、紅はカカシに用があったのだ。人間相手に本気になったと言えば、何を話すつもりだったのか。
 きっと紅は、相手の男を吸血鬼にしようとして失敗している。男は死んだのか、それとも『なり損ない』になったのか。
 誰でも吸血鬼になれるワケじゃない。希にだが、マスターとなる吸血鬼の血が合わず、変態が途中で終わる事がある。そうなると悲惨だ。その人間は行きながら死んでいく。
 人の細胞が死んでいくのに吸血鬼の血が再生を促して、とことん腐りきるまで死ねない。
 紅からは、そんな腐った人間の匂いがした。
 血を分けても良いと思える相手がそうなったのなら気の毒だが、カカシにしてやれる事はない。
 それに、所詮人間はエサだ。
 それを『子』に欲しいと思わないから、そこまで人間を好きになる気持ちが分からなかった。


 不死身の吸血鬼が闘うのは無意味だから、襲撃はないと思ったが、万一に備えて家にいるようにした。もともと二週間に一度の吸血で足りていたら問題ないが、悩むのはイルカの事だ。
 飢えさせて、ひた隠しにした方が良いのか、それとも抱いて体力を付けさせた方が良いのか。事が起これば自分で闘わせた方が楽だが、あのイルカに戦闘能力が備わってるとは思えなかった。それに下手に体力を付けて、街に行かれるのも面倒だ。
 結局カカシはイルカを飢えさせる方を選んで、放っておいた。
 すると、イルカの様子に変化があった。いつもはバラの花が無くなれば、じっと部屋に籠もりきりになるのだが、それがカカシの目の前をうろちょろする。
 どんな気まぐれなのか。
(もしかして、抱いて欲しいとか?)
 イルカから、ソレを頼んで来た事はない。見ている限り、そんな素振りも無く、内心首を傾げていると、カカシの目の前に立ったイルカがポケットから紙切れを出した。
「あの、カカシ……さん」
「カカシ『さん』!?」
 素っ頓狂な声を上げると、イルカが顔を赤らめた。今までそんな風に呼ばれた事がない。むしろ会話らしい会話すらした事無かった。
「な、なに? アンタ熱でもあるんじゃないの?」
 バカにしたつもりは無いが吃驚して言うと、イルカがむぅっと口を尖らせた。
「街に行く時にこれを渡して来て欲しいんです。ナルトとサスケに約束してたから」
 了承したつもりはないが、イルカは持っていた紙をカカシに押し付けて部屋を出て行った。
 折り畳まれた紙を開くと、今度は図形が書いてあった。また『宿題』だろうか。


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