V


 カカシがリビングでダラダラしていると、イルカが寂しそうにバラの花を持って通り過ぎていった。
 さっき冷凍庫を見たら、あれが最後の一個だった。あれを食べ終わると、イルカの飢えが始まる。カレンダーに視線をやって、二週間後を見た。
 そこがイルカの限界。
 中庭でもそもそ食べる姿に、バカだなぁと思った。動ける内に、もっと買いに行けばいいのだ。だけど、イルカはそれをしない。自分が完全に満たされている状態でないと、街に下りなかった。
 イルカは怖いのだ。飢えて見境無く人を襲ってしまうことが。
 飢えてカカシの血を吸ったことが、余程堪えたらしい。以来、人の居る場所を嫌い、家に閉じ籠もるようになった。
 イルカが何故、そこまでして人の血を吸わないのかカカシは知らない。聞いても教えてくれなかった。
 イルカはただ拒絶するだけ。人の血も、カカシも、自分が吸血鬼である事も。


 紅とはあれから何度か会った。会うのはいつも同じ店で、紅は先に来て、ピアノの音に聞き入っていることが多かった。話すのは、たわいない事ばかり。
「狙ってるの? それとも、もう飲んだ?」
 紅が、ピアノを弾いているあの男を狙っているのは一目瞭然だった。
「いいえ、まだよ」
 紅は赤い唇で微笑むと、話はお終いとばかりに瞼を閉じた。
 カカシは紅がどうしてエサを得るのに時間を掛けるのか分からなかった。カカシの場合、目を付けたらさっさと飲むのが常だ。エサとの間に感情なんていらない。エサは所詮エサだ。
(……イルカは、そう思ってないのだろうか?)
 だから人間の血を飲まないのか。
 カカシが吸血鬼として目を覚めた時、イルカは泣いていた。カカシの血を吸って、「ごめんなさい」と、それこそ血を吐くように泣いていた。
 だから、オレは――、
「――シ、カカシ?」
「ん、なに?」
「どうしたの? なんだか寂しそう……」
「そんなことなーいよ。ちょっと曲に聴き入ってただーけ」
 グラスの残りを飲み干すと、次を頼んだ。正直、酒の味はしない。ビールだと炭酸が舌で弾けるが、アルコールはただの水みたいなもんだった。酒場で酒を飲むのは、ただのポーズだ。
「そだ! 紅って、食べて美味しいものってある? 血以外で」
 最後の部分で声を潜めた。
「ないわよ。試したこともないわ。普通の食事で満足してるもの。カカシはあるの?」
「オレもないよ」
「そう、変わった事聞くのね。……誰かそんな人いるの?」
 やはり、それが普通の吸血鬼の反応だ。バラを食べるイルカの方が変だ。
「ん、…前にね。バラの花が美味しいってのがいた」
「へぇ、バラを食べるなんてロマンティックね」
「そうかな? ……そうでもないよ。そんなの、その場しのぎじゃない。栄養にならないし、食べる意味なーいよ」
「ふふっ、誰かそんな人が傍に居るの?」
 紅の言葉にドキッとして、口を閉ざした。
「居ないよ」
 グラスを傾けて、紅の視線を躱す。
「…カカシは、『子』は作らないの?」
 『子』とは、吸血鬼になるまで血を吸った相手のことだ。
「そんなの興味ない。…紅は?」
「私も…。自分が前に人間だったから、誰かを吸血鬼にしようと思わないわ」
 ドキッとした。さっきよりも強く。イルカもそんな風に考えているのだろうか?
「紅の『親』てどんな人?」
「さぁ、知らないわ。目が覚めたらこうなってて。酷い話よね。慣れるのに苦労したわ」
 それから紅が吸血鬼になった時の話で盛り上がったが、ピアノが止んで、男がピアノの蓋を閉めると、紅は立ち上がった。
「じゃあね」
 ピアニストと連れだって店を出て行く。
(進展してるんだ)
 誰かの狩りの姿なんて、初めて見るから新鮮だった。


 屋敷に戻ると真っ暗で、イルカの部屋にすら明かりは点いてなかった。これじゃあ、誰も住んでないと、未だに思わる筈だ。
 二階に上がって行くと、イルカの呻き声が聞こえるようだった。最後のバラが無くなってから二週間過ぎた。左へ曲がって奥の部屋へと進む。
 ドアノブに手を掛けると、鍵が閉まっていた。壊すのは簡単だが、下に下りて鍵を取ってきた。
 ここはカカシの屋敷だ。独り身の未亡人を見取って貰い受けた。だから全室の鍵を持っている。
 鍵穴に鍵を差し込んで静かに回すと、カチャッと鍵の回る音が屋敷中に響いた。
 足を踏み入れると、ベッドの上の塊がビクッと震えた。近づく足音に、更に小さくなろうとするが無駄なことだ。
 シーツを捲ると痩せ衰えたイルカが現れた。抵抗する為にシーツを握る力さえない。骨が浮くほど痩せて枯れ枝のようだった。
 飢えは相当激しい筈だ。ここまで人の血を我慢する意味が分からなかった。我慢したからと言って、人間に戻れるワケでも無いのに――。
「アンタ、人間に戻りたいの?」
 ふと思って聞くと、イルカは答えるのを嫌がるように唇を引き結んだ。
(バカバカしい…)
 血を我慢したって、人間には戻れない。
 そんな事は、本人が一番良く分かっているだろうに。
「ま、いいや」
 やることをやるだけだ。
 丸くなるイルカの顔を掴んで上を向かせた。カサカサに乾いた唇を親指で撫でると、イルカは嫌がって顔を戻そうとした。
「面倒くさい。手間掛けさせないでくれる?」
「ほっといて…」
「だからさぁ、アンタが渇くとオレまで渇くんだって。本当にほっといて欲しいんだったら、自分でちゃんと血を吸ってきてよ。…それとも、オレにこうして欲しくてワザとしてるの?」
「違う!」
(…憎たらしい)
 弱っている癖に、こんな時だけ力いっぱい言うイルカにむかついた。
(だったら、強請らせてみるか)
 嫌がるイルカの顔をもう一度こちらに向けさせると、舌を伸ばした。
「いやだ…、ぃやっ…」
 唾液をたっぷり乗せて唇が光るほど舐め続けると、薄く開いた唇からイルカの舌が見え隠れした。唾液を欲しがって伸びる舌を、イルカが奥へと引っ込める。
 どれほど拒もうと、体が体液を欲しているのは目に見えていた。本能と理性のせめぎ合いにイルカの呼吸が浅く乱れ、掠れた声が喉から漏れた。
「ぁ…、あ…」
 にゅうと犬歯が伸びてイルカの歯を尖らせる。尖った歯を舐めて舌先で突くと、耐えられないとばかりに舌を伸ばした。
「ぅんんっ…、はぁっ…」
 舌を絡み合わせると、イルカはちゅうちゅうカカシの舌を吸って喉を潤そうとした。イルカの手が離すまいとカカシの背に回る。反り返るイルカの背を抱き寄せ、深く唇を合わせると、乾いたイルカの口内を舐め回した。
「んっ…ふぅんっ…ぁ…あっ…」
 もっと、とイルカの舌がカカシの口の中まで伸びてくる。舌の付け根へ潜り込もうとするイルカの舌を押し返すと、カカシは唇を離した。
「あっ」
 カカシを抱くイルカの指が背中に食い込む。舌を突き出したまま、切なくカカシを見つめるイルカに劣情を刺激されたが、そっけなく腕を外すと体を起こした。
 イルカの視線がカカシを追い掛ける。
「オレの事が欲しいの?」
 くすっと笑って言うと、イルカの頬がさぁっと羞恥に染まった。横を向いて体を丸めると、視界からカカシを追い出す。頬に掛かる黒髪を梳いてやると、イルカは唇を噛み締めた。
「あっそ」
 ならいいと立ち上がると、イルカの部屋に備え付けてあるバスルームへ入った。頭からシャワーを浴びて、のんびり湯船に浸かって時間を潰す。音を立てて湯を掻き寄せて、イルカに水音を聞かせた。
 この水が飲めたら、どれほど楽になるだろう。
 飢えた吸血鬼にとって水は、人間にとっての塩水と同じだ。渇いている時に飲めば、渇きが増す。飲んでも渇きを癒やす事は無い。
 湯船から上がると、バスローブを羽織って外に出た。
 イルカはベッドに蹲ったままで、渇きと飢えに小さく震えていた。
 カウチに腰掛けて、髪を拭きながらイルカの様子を眺めた。
 そう長くは保たないだろう。僅かばかりの唾液では、ひび割れた大地に水滴が落ちるほどの潤いしか与えない。満たされない欲求が理性を食い破るのは時間の問題だ。
 イルカが陥落するのを待つ。


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