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目が覚めるとイルカは居なくなっていた。だけど慌てたりしない。どうせ帰って来る所は、この屋敷しかないのだ。
昨夜はあれから何度も求められて、体が疲弊していた。昨日飲んだ四百ミリリットルの血では足りないぐらいだ。近い内に街に行って、血を飲まなくてはいけない。
(…そう言えば、女どうしたっけ?)
いつもなら、カカシの方が先に起きて家から出すのだが。
もしかしたら、何処かの部屋で寝ているかもしれない。そうして居着く女は今までにも居た。それはそれで便利だった。女をその気にさせれば、いつでも血を飲めたから。最終的には記憶を消して、家から追い出すのだが。
(ま、どっちでもいいや)
それより、もう少し寝たい。朝の光は苦手だ。映画や物語のように太陽に当たって灰になることは無いが、吸血鬼になってからは、すべてが鮮明に見えて眩しかった。月明かりぐらいが丁度良い。
吸血鬼になったばかりの頃、空を飛ぶトンボの羽の動きがスローモーションで見えて驚いた。色は鮮やかさを増し、集中すれば蟻の足音まで聞く事が出来た。演奏を見れば楽器が弾けたし、ビルの屋上から飛び降りても怪我一つしない。したとしても、すぐに治って傷跡すら残らない。病気もしない。年も取らず、死ぬ事もない。まるっきり世界が変わってしまった。
リビングに移動してソファに座ると、ふわぁと欠伸をした。肘掛けに足を載せて目を閉じるとウトウトする。
イルカが帰ってきたのは昼前だった。全身を黒の服に身を包み、腕いっぱいに深紅のバラを抱えて帰ってきた。悔しいが、黒尽くめのイルカに深紅のバラはよく似合う。その頬がツヤツヤと光っているのを見て鼻で笑った。
「随分お早いお帰りで。食事でも済ませて来たの?」
何をしに出掛けたのか知っている上での嘲笑に、イルカはカカシに一瞥を与える事もせずリビングを通り過ぎると、キッチンに入った。
イルカはバラを買いに行っただけだ。街に行っても吸血はしない。
イルカはバラの花束をテーブルに置いて、鋏を取り出すとチョキチョキと花の下で茎を切っていった。花と茎が分かれると、花だけを集めて冷凍庫に詰めた。
イルカのおやつの出来上がりだ。血を吸わない代わりに、ああして保存したバラの花びらを、イルカは時々食べていた。
今も花を一つ掴むと部屋を出る。玄関の扉を開ける音が聞こえてから窓の外をみると、中庭で花びらを摘んでいた。それを口許に運ぶと、肉厚な唇を開いてパクリと食べる。もぐもぐ口を動かすと、ふわりと笑みを浮かべて、また一枚千切った。
美味しそうに食べる姿に、カカシも食べてみたことがあるが、草っぽい味がして不味いだけだった。イルカにだけ美味しく感じるのかもしれない。
カカシにもそんな食べ物があるのかもしれないが、探してみようと思わなかった。人の血だけで事足りていたから。
吸血鬼は人の食べ物を必要としない。食べられない事は無いが、食べてもあまり味がしない。感覚が優れている吸血鬼の唯一の欠点と言える。五感の内、味覚だけが退化していた。
中庭で寛ぐイルカをぼんやり眺めた。イルカはカカシの前で寛ぐことはしなかった。イルカとは、吸血鬼として目が覚めてから喧嘩ばかりだ。最初から、カカシはイルカに嫌われていた。
日が落ちるのを待って、カカシはイルカの部屋へ向かった。
階段を上った左の突き当たり。そこがイルカの部屋だ。
無遠慮に、いきなりドアを開けようとしたら鍵が閉まっていた。昨日の今日で仕方ないかと可笑しくなりながら、カカシはドアをノックした。
コンコン、コンコン、と四回。これを二回繰り返して返事を待つ。
「……なんですか」
「ねぇ、昨日の女知らない?」
ようやく聞こえて来た返事に問いかけると、ドアが開いて、呆れた顔をしたイルカが出てきた。
「アナタこんな時間までほったらかしにしておいて、良く聞けますね。女なら俺が外出する時に街まで送り届けました」
「ふぅん、そうなんだ。ちゃんと記憶消してくれた?」
「言われなくても」
「誘われなかった? 朝起きてもまだ発情してたデショ、あの女。イルカ、あの女の血、飲まなかったの?」
「そんなことするわけないじゃないですか!」
激昂するイルカがドアを閉めようとしたが、扉の間に靴を差し込んで阻止した。扉を押して体を割り込ませようとすると、イルカも同じぐらいの力で押し返した。
「オレ、出掛けてくるから。昨日イルカに搾り取られたから、お腹すいちゃってサ」
暗に昨日のセックスを匂わせて責めると、カッと頬を火照らせたイルカがカカシを睨み付けた。悔しそうに噛み締める唇に、昨日カカシが付けた傷跡は無い。
「もう出て行ってください!」
「ハイハイ。戸締まりはちゃんとしてね」
一歩引くと、凄い勢いでドアが閉められた。すかさず鍵を掛ける音がして、カカシはくすりと笑って踵を返すと家を出た。
街に下りると酒場に向かった。酒場は女を拾いやすい。適当な店を選んで中に入ると、生演奏のピアノが聞こえてきてガッカリした。
(……間違えた)
だが足を踏み入れた手前、店の奥に進んだ。一杯飲んだらすぐに出るつもりで。
店は客を選ぶ。こんな雰囲気に集まる客を、カカシはエサとしていなかった。もっとうらぶれた店の方が手軽だ。それに高い店に来るからと言って、血が美味いとは限らなかった。
一度、脂肪まみれの血を飲んで、口の中がおかしくなった事がある。あの時は何回歯を磨いてもネトネトが取れなくて辟易した。
カカシの好みは痩せすぎず太りすぎず、適当に遊んでいる身持ちの悪い女だった。そんな女は誘いに乗りやすく、吸血の際も暗示に掛かりやすい。
すぐに席を立つつもりでカウンターに座ると、バーテンにビールを注文した。曲を弾き終えたピアノが再び鳴り出すのを待ってからフロアを振り返った。
フロアの隅に置かれた大きなグランドピアノを弾くのは髭面の大男で、でかい図体に似合わず指先は滑らかに動き、繊細な曲を奏でた。ピアノを囲むように丸いテーブルが置かれ、品のある男女がグラスを傾けていた。
すっと奥まで視線をやると、赤いドレスを着た女が一人で飲んでいる。肩まで届く髪は漆黒で、緩やかなカーブを描いている。カカシが背中を見つめると、ふっと気付いたように振り返った。瞳は大きく紅色で、ぽってりした唇にも同じ色の口紅が塗られていた。
女には独特の存在感があった。
――間違い無い。
女はカカシと視線を合わせると、ふっと口角を上げて席を立った。
「隣、いい?」
「ああ」
女は吸血鬼だった。外見はまるっきり人間と変わりないが、同じ吸血鬼だと何故か分かった。強いて言えば、肌が美し過ぎる。カカシにも女にも、肌に傷一つ無い。吸血鬼に変態する時に、前にあった傷はすべて消えてしまった。
あと瞳の色も違う。色素の事じゃない。人間よりも長く生きた分、老成して同年代の人間よりも深い色合いを醸していた。
「…いつからこの街に?」
女の為にドリンクを注文した後で聞いた。
「先週から。残念…、気に入っていたのに。先客が居たのね」
目の前にグラスが置かれると、女はバーテンににっこり微笑み、グラスを傾けた。女の美しい唇の中へ赤いワインが消えていく。
「別に構わないよ。他は居ないし。広い街だから平気デショ」
「そう? ありがとう」
吸血鬼は群れない。一つの街に一人か二人ぐらいだ。数が増えると人間に気付かれる可能性が高くなる。映画じゃないが、吸血鬼狩りに遭わないためにも、無駄に数を増やさない事と、定住しない事は暗黙のルールだった。
女は紅と名乗った。十年ほど住んでいた街を離れて、この街に着いたらしい。話は主に情報交換になった。吸血鬼はバラバラに住んでいる分、種に対する知識が乏しい。
何故、傷が出来ないのか。何故、年を取らないのか。何故、人間の血を飲むのか。何故、吸血に快楽が伴うのか。女には聞けないが、何故、生殖しないのに勃起するのか。
そして何故、吸血鬼が存在するのか。
そんな素朴な疑問に答えてくれた吸血鬼はいない。紅もまたそんな一人だった。
「カカシって、いろいろ考えるのね」
「そうかな。…まぁ、時間だけはたっぷりあるし…」
少し呆れたように紅は笑うと、ふと真剣な眼差しになった。
「ねぇ、カカシは始祖に逢ったことある?」
「いや」
「そう。私も無いわ」
――始祖。
最初の吸血鬼。彼だか彼女だか知らないが、ソイツが人の血を吸った事で吸血鬼が増えていった。マスターを遡っていけば、カカシも紅も同じ吸血鬼に行き当たるかもしれない……。
「……オレ達って、もしかして親戚かも?」
人とは違う形式で血の繋がりがあるかもしれないと、紅を見ると、紅はふっと吹き出してカカシの肩を叩いた。
「やだ、冗談言って。……噂では何人かいるらしいわよ、始祖って」
「そうなんだ…」
正直、あまり興味無い。
「それに、どう考えてもアナタと血が繋がってる感じがしない」
「あ…、ウン。それはオレも」
イルカとは、はっきり血の繋がりを感じる。
その事は口にせず、バーテンにおかわりを注文すると、煙草を取り出して火を付けた。火を吸い上げて煙を吐き出すと、ピアノが新たな曲の演奏を始めた。
「…彼、上手わね」
頬杖を突いた紅が音に聞き入るように目を閉じた。
「そうだね」
不必要に耳が肥えている分、ちょっとした弾き間違いやテンポが狂いで、音楽はたちまち雑音に聞こえた。だが、彼にはそれがない。
優しい曲に耳を傾ける紅に、別れを告げると外に出た。
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