カカシが青年を担いで向かったのは、隠れ家にしている家の一軒だった。地下へ続く階段を下りて、古びたドアを開いた。滅多に使わない部屋だから、そうそう見つからないだろう。
 部屋はホコリが溜まって汚く、空気も淀んでいた。歩けば足跡の付く部屋を横切って、ベッドに青年を下ろした。もうもうと舞うホコリに顔を顰めるが、青年が目を覚ます気配は無かった。
 力なく横たわる様は、どう見てもただの人間だった。あの路地裏で思った事が馬鹿馬鹿しくなるほどに。だけど、青年の上唇をもう一度捲って確信した。
 彼は人間ではない。
 いくら八重歯と言っても、ここまで人の歯が尖る事はない。その歯は野生のオオカミや虎のように長く鋭かった。
(……オオカミ男? それとも吸血鬼?)
 こんな歯の持ち主を、カカシは他に知らない。
(……だったら、もっと凶暴でも良さそうなんだけど……)
 子供の頃に見た映画はどれも、彼らの姿は浅ましく凶暴に描かれていた。だが、目の前にいる青年は牙さえなければ、ただの人で、浮浪者だ。頬はこけ、腕も痩せ細って、とても力があるように見えなかった。
「……ま、試してみるか」
 眠る青年の口を開けさせると、カカシは自分の指先を噛み切った。ぽつりと浮かぶ血液を、青年の口に向けた。
 彼が吸血鬼であるならば、何か変化があるはずだ。残念ながら満月の方はまだまだ先だった。
 指先に堪った血がゆっくり指から滑り落ちる。ぽた、と唇に落ちた血は、横に流れた。
「あ」
 勿体ない。血に濡れた指先で落ちた血液を掬って口の中に擦り付けた。随分水を飲んで居なかったのか、青年の舌はカラカラに乾いていた。――ふと、思い立ってカカシは立ち上がった。
 台所に向かってスプーンを持ってくると、柄の方を青年の口の中に突っ込んだ。いきなり指を噛み切られては堪らない。歯が噛み合わないのを確認すると、今度はポケットからナイフを取り出して指先を切った。さっきよりも血の流れが多くなって、ぽたぽたと溢れた。シーツの上に落ちた血に、慌てて青年の口の上に運ぶ。
 溢れた血は青年の口の中に流れ込んで、乾いた舌の上を滑った。
 もぞり、と青年の舌が動く。知らず鼓動が早くなった。これからどんな反応が見られるのか。
 気持ち悪いことをするなと怒られるのか。それとも、もっとと強請られるのか。
 もぞりと動いた青年の舌は、カカシの血を載せて喉の奥に消えた。飲み込む仕草をすると、再び舌を差し出す。そこにぽた、と血を落とすと、青年が喜んだ気がした。本当はまだ意識が無く、眠ったままなのだが。
 血が凝固して止まれば親指で傷を抉った。そうして新たな血が流れ込むまで、青年は舌を突き出して血を強請った。まるで目の見えない子猫のような必死さで。
 度々血が凝固すると、カカシは面倒臭くなって指を青年の口の中に入れた。もちろん噛み切られないように、スプーンの柄を咥えさせたままで。
 指を与えられた青年の舌が、ひたりとカカシの指に絡みつく。ザラザラと舌で傷口を探り、そこから血が出ていると分かると、ちうっと吸い付いた。
 ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。
 青年の口から上がる音に、カカシは笑い出しそうになった。これでは子猫そのものだ。唇の隙間から覗く尖った歯が、ますますそう思わせた。
(……カワイイ、かも?)
 本能的な庇護欲を揺すぶられる。だが、すぐにカカシは打ち消した。カカシはネコやイヌを拾うタイプの人間じゃない。
 それに相手は吸血鬼だ。カカシより力が強くても不思議じゃなかった。
(本物の吸血鬼になんて遭った事無いから、どうだか知らないけど)
 不思議と青年を怖いとは思わなかった。
 外見が自分より年下のせいかもしれない。それに背負った時、青年は紙のように軽かった。とても力があるように思えない。
――がちゃ。
 スプーンの柄を噛む音が、カカシを思考から引き戻した。
 咥えさせたスプーンが邪魔なのか、青年は舌で押し出そうとしていた。そうはさせまいと、カカシがスプーンを押し返すと、青年が嫌がるように顔を背けた。
「ぅ…あ…」
 初めて声を上げた青年にドキッとする。覚醒するのだろうか。
 ドキドキと鼓動を早くしてカカシが青年を見ていると、青年の瞼がピクピクと動いた。ゆっくり瞼が持ち上がる。現れた瞳は黒く潤んでいた。吸い込まれそうな黒にカカシの目は釘付けになった。
 男の目が、彷徨いながらカカシを捉えた。
 くらり、と目の前が歪んだ気がした。ぽろっと手からスプーンが離れて、カカシは慌てて指を引き抜いた。ドキドキと鼓動は早いままだ。邪なことをしでかした気分になって落ち着かなくなる。そわそわと揺れた指をシャツで拭うと、青年の手が、カカシのシャツの袖を掴んだ。
「ぁ…、もっと…、もっと、ほし…」
 目を覚ました時よりもずっと強い視線で強請られる。かぁっと頬が火照った。
(オレ、なんかおかしい…)
 くらくらと舞い上がった感覚に陥る。
 ――傍に居ない方がいい。
 頭の奥が警告を発した。カカシはこの警告に何度も助けられてきた。だけど、今はそれを上回る欲求が込み上げる。
 ――傍に居たい。彼が望むなら、どんなことだって――。
 まともな判断力じゃない。きっとそれは死を意味する。でも構わないと同時に思った。
(殺されても構わない。…吸血鬼になったって…)
 さっきまで寝たきりだった青年が体を起こすのをじっと見ていた。その先に起こる事が想像出来るのに、体が動かない。
 青年がカカシの首筋に腕を回して顔を埋めた時、カカシの中で湧き起こったのは喜びだった。
 青年の息が首筋に触れると甘く肌が粟立った。ぶつり、と音を立てて青年の歯が食い込む。
「…くっ、…ぁ」
 稲妻が走るように快楽が駆け抜けた。痛みは無い。ただ、青年が吸い付く度に、体の中心を快楽が走り抜けた。性器が硬く滾る。それが肉欲からなのか、死を間際にした人としての最期の足掻きだったのか、カカシには判断が付かなかった。
 目の前が暗くなり、意識がだんだん遠退いていく。


 最後に目にしたのは、汚れた小窓から見える濁った青空だった。


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