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 紅の家は街から離れた川の畔にあった。レンガ造りの小さな家で、傍に大きな木が茂っていた。家に近づくにつれ、微かな腐臭が届く。
 先を行く二人の後を歩きながら、カカシは自分が用無しなのを感じていた。カカシが紅の家に行っても、出来る事はない。イルカを守ると言っても、イルカはカカシや紅よりも強く、死に掛けているアスマを足しても、イルカをどうにか出来ると思えなかった。
 それでも、イルカが止めないのを良い事についてきた。
 木の柵で作られた囲いを過ぎると、紅が足早にドアに向かった。
「アスマ!」
 扉を開けると、むぁっと強い腐臭が鼻を突いた。これで本当に生きているのかと思いながら家の中に入った。むしろ、死んでいてくれると有り難い。
 紅に続いて奥の部屋に進むと寝室に着いた。男は、生きているのが不思議なぐらいだった。横たわったシーツは膿で黄色く染まり、腐りかけた皮膚が張り付いていた。全身の皮膚が腐り、所々黒く変色していた。
 首の辺りが一番酷い。何度も噛んだのだろう。まともな皮膚を探すのが難しいぐらい化膿していた。
 人間ならとっくに死ねただろうが、僅かばかりの再生がアスマを生かしていた。
 どれほどの苦痛だろう。想像してぞっとするが、アスマは笑顔で紅を見つめていた。
「ごめんなさい、アスマ…。ごめんなさい…」
「構いやしねぇ…。泣くな、紅。笑っていてくれ…」
 アスマの傍で突っ伏して泣く紅の髪を撫でようと、アスマが腕を上げて下ろした。その手も膿で汚れていた。ふぅっと静かに息を吐くと、アスマはカカシ達を見た。
「誰だ…?」
「アナタを助けてくれる人よ。…吸血鬼よ」
 紅の説明に、アスマが僅かばかり目を見開いた。
「本当に、他にもいるんだなぁ…」
「そうよ。そう言ったでしょう」
「そうだったな…。…なら安心だ」
 アスマの言葉に、紅の瞳からぽろりと涙が零れた。イルカを振り返り、縋る目で見つめる。
「お願い…、どうか…彼を助けて」
 その光景から、カカシは目を背けたかった。今すぐイルカを連れて帰りたい。嫌われたままでいい。自分以外の誰の血も吸わないで欲しかった。
 だけど、カカシにはそれを願う立場にない。
 カカシは、イルカの、所有物に過ぎないのだから――。
 出来れば自分が先に吸血鬼になって、イルカの血を吸いたかった。そしたら血で縛り付けて、誰の血も吸わせないのに。
 ひたひたと、胸の奥から冷たい泉が湧いて胸を満たした。
(…寂しい……)
 堪らなく寂しかった。イルカの存在が、余計カカシを孤独にする。
 紅に見つめられたイルカは、一歩前に出てアスマに近づいた。
「……吸血鬼になりたかったんですか?」
 イルカの静かな質問に、アスマが唇を歪めた。笑おうとしたらしい。
「さあな…、もう忘れちまった。…ただ、コイツの傍にいてやりたかったんだ…」
「吸血鬼がどれぐらい生きるか知ってますか? 人の人生よりずっと長いですよ。そんな長い間、一人の人と一緒に居れますか?」
 イルカの質問は、『出来ないだろう』と言っていた。さっき屋敷で紅に言った事と違う。イルカは紅に、ずっと添い続けるか聞いたのだ。
 これはイルカのテストだろうか? 吸血鬼となるに相応しいかどうか見極めるための。そうだとしたら、カカシはイルカの流儀をすっぽかしたことになる。
 新たに知った事実にカカシは小さくなった。これでは嫌われる筈だ。
「それに楽しい事ばかりじゃないですよ。味覚が変わって、人間の食べ物は食べられないし、何より血を摂取しなくてはなりません。親しくなった人は、みんな先に死んでいくし、一所に留まる事すら出来ない。あなたにそんな生活を続けていく覚悟はあるんですか? いつかこの人のことを嫌いになる日が来るかもしれない。吸血鬼にならなければ良かったと、憎むかもしれませんよ」
「ははは…、いろんなこと聞くんだなぁ。そんな先の事は、分からねぇし、そうならないと約束も出来ねぇ。ただおれは、紅に惚れちまった。紅が可愛くて可愛くて仕方がねぇんだ。それだけだ…。だから、あとのことはどうでもいい…」
 話しすぎたとばかりにアスマが息を吐き出し、すぅーっと目を閉じた。もう虫の息だ。紅が、助けてくれるんじゃなかったのかと、イルカを見上げた。
 カカシは静かに身構えた。イルカがアスマを助ける気がないならそれでいい。でも、イルカに危害は加えさせない。
 ピリピリとした空気を醸し出すカカシを尻目に、イルカはアスマの首筋を指差すと言った。
「噛むところが違うんです。ここを噛んで」
「でも、そんなところ…。脈が切れるわ。アスマが死んでしまう……」
「それでいいんです。この人は一度人間として死にます。それから吸血鬼へ変態が始まるんです」
「でも…」
 紅の目が揺らいだ。真実を読み取ろうと、必死でイルカを見つめるが、イルカは何も言わない。
「構わねぇ…。やってくれ、紅…」
「アスマ…」
 眠ったと思っていたアスマが口を開いた。紅は自分が汚れるのも構わず、アスマの頬に触れ、唇を重ねた。
「愛してるわ、アスマ。愛してる…」
「あぁ」
 アスマの口許に笑みが浮かぶ。
 紅はアスマの首筋に牙を立てた。ぶつりと音が聞こえて、アスマの体が痙攣した。その震えが止まるまで、紅はアスマから離れなかった。
 やがてアスマの動きは止まり、呼吸も止まった。
「わああぁーっ」
 紅の激しい泣き声が部屋に響いた。イルカは慰める事もしなければ、励ます事もしない。無言のまま向きを変えると、部屋を出て行こうとした。紅でなくても、だまされたんじゃないかと思う素っ気なさだった。
「待って! この人はいつ吸血鬼になるの?」
「さぁ?…この人の時は一週間後でしたよ」
 イルカに指を差されて、内心そんなに長く死んでいたのか、と驚きつつ、紅の家を出た。


「…イルカ、あの人吸血鬼になるの?」
「さぁ」
 屋敷への道のりを歩きつつ、カカシは浮かれそうになるのを抑えきれなかった。
 ――イルカは誰の血も吸わなかった。
 それが堪らなく嬉しい。
 イルカがカカシより強かったのは吃驚だけど、それはカカシが知らなかっただけの事だ。また、イルカの面倒はカカシが見ればいい。
 一難去って、カカシは前向きに物事を考えられるようになった。
 屋敷に戻ると折れた台の残骸を片付け、窪んだ壁に板を張った。
 これで何もかも元通りになるはずだった。
 だけど数日後、イルカがカカシの前に立って、驚くべき事を言った。

「カカシ…。俺はこの屋敷を出ようと思う」


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