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イルカは部屋に閉じ籠もりっぱなしで、まったく出て来ようとしなかった。鍵は壊れて掛けられないから、カカシは部屋に入ろうと思えばいつでも出来たが、そうしなかった。
(これ以上イルカの人格を踏みにじりたくない)
今更ながら、思った。それに、紅が襲ってくるかもしれない今、イルカが部屋に居てくれるのは安心だった。カカシの血を吸っているから、数日放って置いても大丈夫なのは分かっている。
皮肉な事に、それはカカシも同じだった。イルカの血を吸って、かつて無いほど満ち足りている。この調子なら、一月ぐらい食事をしなくても平気な気がした。
イルカの甘美な血の味を思い出すと喉が鳴る。あの時カカシは初めて、体を流れる血に身を任せた。獣のように咆哮を上げたくなる狂気。ずっと残っていた人の枷が外れて、開放感に酔いしれた。
今度またあんな風になったら、自分を抑えられるかどうか。
カカシは飢えたくないと思った。満たされていればエサを選び、飲む量をコントロール出来るが、飢えると我を忘れて血を漁りそうだった。
――吸血鬼本来の姿は浅ましい。
味覚以外は全てにおいて優れていると思っていた吸血鬼の本質に触れて、カカシは苦々しく思った。
そして、考えはまたイルカに戻って行く。
どうしてイルカは、そうなると分かっていて血を飲まないのか。また、餓えた状態で耐えていられるのか――。
かさり、と葉の落ちる音が聞こえて、カカシは思考の淵から舞い戻った。窓辺を見ると、鉢に植えたバラが葉を一枚落としていた。カカシは立ち上がると水差しを手に取り、乾いた土に水を注いだ。
バラはカカシが投げ捨てたものだった。イルカを襲った翌朝、庭を探して拾ってきた。バラは根に土の無いまま放っておかれたせいで萎びていたが、カカシは鉢に植え直して自分の部屋に持って来た。
イルカが大事にすると言ったバラだ。枯れないで欲しい。
幸い枝先に付いていた蕾は枯れておらず、緑の萼がしっかり花びらを守っていた。
鉢に注いだ水は土を半分ほど潤すしかなく、カカシは水差しを持ったまま部屋を出た。反対側のイルカの部屋を見ると、扉は閉じたままで、しんと静まり返っていた。
(イルカ…)
声を掛けたいと思っても、掛けられる言葉がない。顔など見たくもないだろうと思うから、黙って階段を下りた。
(これからイルカと、どう暮らしていけばいいんだろう…)
これから先のことを考えると気が重くなる。これまでの百年、嫌われ続けながらも一緒に暮らしてきた。これから先、同じ百年を想像すると、いっそイルカから離れた方がいいんじゃないかと思えてくる。
だが、離れるとイルカは飢える。イルカが出会った頃と同じ状態に戻るのが目に見えているから、離れられなかった。
キッチンに入ると、蛇口の下に水差しを出した。水差しを満たして部屋に戻ろうとすると、目の前に黒い煙が漂ってきた。
火を使うことなんてないのに、どこからだ。
まさか、イルカの部屋からか? と見上げると、煙はカカシの体に巻き付き、実体化した。女の細腕が、背後からカカシを締め上げる。
「紅!?」
抗うと、水差しが手から離れて割れた音を立てた。振り解こうと藻掻くが、紅も吸血鬼だけあって凄い力だ。この腕のどこにと思わせる力でカカシの体を拘束する。
カカシは紅の腕が解けない事を悟ると、逆に腕を掴んで後ろ向きに駆けた。ほどなく壁に突き当たって、ガツッと背中に衝撃を感じた。
「うぅっ」
苦しげな声が聞こえて、紅の腕が緩む。その隙にカカシは体を離すと、振り返る勢いを乗せて紅の腹に膝を入れた。
女だからと言って容赦はしない。手加減すれば、こっちがヤバかった。それに紅がイルカに気付く前にカタを付けたい。イルカにも気付かせたく無かった。
跪く女の腕を掴んで、外へ引き摺って行こうとすると、その腕がふっと形を無くして黒い煙に変わった。
(ちっ、やっかいな)
カカシの手の中から流れていくと、離れた所で形を作った。
「お願いしても、ダメなんでしょ…?」
疲れ切った表情に、諦めの笑みを浮かべて紅が言った。その姿から、紅を圧し包む絶望が透けて見えるようだった。
「ウン、ゴメンネ」
血などイルカ以外の誰にも与えたくない。
向かってくる紅に、カカシは廊下に飾ってあった銀の花瓶を手に取り殴りつけた。ボキッと骨の折れる鈍い音がして、紅の右肩がだらんと落ちた。
痛みはある筈だ。治癒すると言っても擦り傷とは違い、骨折は時間が掛かる。だけど紅は痛みを感じさせることなく、残った腕を振り上げると、カカシに振り下ろした。鋭い爪を避けるが、避け切れなかった前髪が触れてはらりと落ちた。
紅は唇から白い牙を覗かせ、吸血鬼の本性を剥き出しにしてカカシを見ていた。その目が赤く輝き、光沢を増す。
その姿を、カカシは美しいと思った。やつれた雰囲気のあるものの、出会ってから今が一番綺麗かもしれない。だけどそれは終末の美しさだ。
(紅…、死にたいの?)
だったら、それを叶えてやろうと思った。殺せないまでも、活動の停止方法なら知っている。心臓に杭を打ち込み潰せばいい。後は再生出来ないように杭を刺したままにするだけだ。
「おいで、紅」
「ごめんね、カカシ…。嫌な事をさせて…」
まったくだ。
そう思っても口には出さず、花瓶を置いてあった台を引っ繰り返すと、踏みつけて足を折った。めりっと音を立てて木が折れると、それは一本の杭になった。
カカシが構えると、紅はふっと微笑みを浮かべた。その笑顔を見て、初めて出会った日を思い出した。
あの時、優しいピアノの旋律が流れていた。
すべてを捨てて向かってくる紅の心臓目掛けて、カカシは杭を突き出した。それは紅の胸を貫き、心臓を突き破る筈だった。
だが、杭が紅の胸に届こうとした瞬間、コトと二階から音がした。一瞬にして紅が動きを止め、互いにハッと上を見ると、イルカが二階の手摺りから下を覗いていた。
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