春 12





 どういうことなのか訳が分からなくて、足が着かないように体を起こすとベッドに腰掛けた。
(どうしよう・・・)
 帰ろうにも玄関は遠く、すぐ近くの窓から出るにも足を着けばベッドを汚してしまう。
 どうしたものかと逡巡している間に桶を抱えたカカシさんが戻ってきた。無言のまま俺の足元に桶を下ろして床に置くと、中の水がたぷんと揺れ、輪を描いた。
 カカシさんの硬い表情に体中に緊張が走って、動けないでいると足首を掴れ、水に浸けられた。
 カカシさんの指が足の裏を撫ぜる。そのたびに透明だった水に泥が溶けて濁っていった。
「あ・・いいです。自分で・・・」
 足を引こうとすると、足首を強く掴まれて叶わない。
「あの・・・カカシさん・・・」
「いいからじっとしてて」
「・・・・はい」
 俯いたカカシさんの表情は前髪に隠れてしまって伺えない。
 水が汚れると綺麗な水を汲みなおして、また。指が触れぴりっとした痛みに足が跳ねると、動きを止め、そうっと触れてくる。指の間も、爪の先も。
「靴ぐらい履きなさいよ」
 その言い方が以前のカカシさんを思わせてほっと緊張が緩んだ。
「・・・・・すいません」
(あ・・・今、ちょっと笑ったかも・・)
 カカシさんの雰囲気が柔らかくなった気がする。
 俯いたままのカカシさんの表情は相変わらず伺えないが、銀色の髪がカカシさんが動くたびにサラサラと揺れ、窓から入り込んだ光を反射した。
 光が透けそうに淡い銀色。
 この色を前は良く見ていた。
 カカシさんが泊まっていった朝、肩越しに振り返れば、まず見えるのはこの色だった。
 針金のようにぴんとして、でも見た目で想像するよりずっと柔らかいのを知ってる。
 こうしてカカシさんの髪を見ていると、前の関係に戻れたような錯覚に陥る。
 でも、そうじゃない。
 もう戻れない。
 カカシさんの望みを俺は叶えることが出来ない。

 だから、きっと、これが――最後。
 もうこんな風に会ったり出来ない。

 足を洗い終えたカカシさんがタオルで水気をそっと拭う。
 救急箱を持ってくると傷口に塗り薬を塗り込んだ。

(・・・終わってしまう)
 ふいに何か伝えないといけない気がして焦燥が湧き上がる。
(でも何を・・・?)
 出来ることなら以前の関係に戻れるようなことを。
 ずるい考えだと理解しながらも言葉を探す。
 しかし混濁した頭では上手い言葉が見つからない。代わりに思い浮かぶのは、こんなことならもっといっぱいケガすれば良かったと馬鹿な考え。
 薬を塗り終えると、白い指が器用に包帯を巻いていく。
 きゅっと包帯の端を結び終えたカカシさんが出ていた薬を片付け、ぱたんと箱を閉じた。

(終わってしまった)

 先ほどまでの焦燥は救急箱の蓋が閉じられたのと同時に影を潜めた。
 これは諦観。
 馴染みのある感覚。幼い頃からいつも間にか身に付いた生き方。
 欲しいものはいつだって手に入らない。
 そんな時は心をそのことから切り離せば痛みを感じずに済んだ。

 来た時よりも明るくなった部屋の中、じっと救急箱の蓋を押さえたカカシさんの手を見ていた。そうしたからといって時間が止まる訳でもないのに。
「しばらく痛いよ」
 救急箱を脇に寄せたカカシさんが言った。
 喉が塞がって声にならなかったから、「はい」と答える代わりに頷いた。
 黙っていると思ったのかカカシさんが顔を上げた。
 蒼と赤の瞳が真っ直ぐこちらを向く。透き通った泉に朝と夕暮れの光が差し込んだようなカカシさんの瞳。
「なにがそんなに悲しいの?」
「・・え・・?」
 不意に言われたことの意味が理解できない。
 痛ましげな顔で見上げるカカシさんの指が頬に伸びて、それが触れる前に顔を背けた。
「悲しくなんか・・ないです」
「そう?じゃあ、・・・淋しい?」
 言われた瞬間、ぐらっと胸の辺りが揺れた。
 ――淋しいかだって?
 淋しいに決まってる。
 ずっと独りでいた。
 それをなんとも思ってなかったのに。
 カカシさんが傍に居たりしなければ、失う痛みなんて忘れたままでいられた。
 それなのに勝手に傍にきて、その温かみを覚えさせられて。
 それをまた失う。
 淋しくないわけがない。
 だが、そう思っても言葉にはしないし、したくない。
 それが自分で選んだ生き方だったから。
「オレは淋しかったよ。イルカ先生に会えなくて毎日がつまらなくて、味気なくて。やっぱり一緒にいたいと思ったよ。イルカ先生は?イルカ先生はそう思わなかった?」
「俺は・・、俺は・・・・」
 どう答えればいいのだろう。
 嬉しかった。
 カカシさんの言葉を聞いて、押さえようも無く歓喜が湧き上がる。
 まだ嫌われた訳じゃない。まだ間に合う。
 一緒にいたい。

 でも俺のはそれだけでは納まらない。
 それだけじゃ駄目だ。


「・・・思わない。一緒にいなくてもいい」

 漸く吐き出した言葉に胸が錆びた鉄が擦り合わさるように軋んだ。

 ――俺はこの人を失わなければならない。

 そう思うと、体中の細胞が死んでいくように体から力が抜けていく。


「だったら・・・どうして泣くの?」
「なにを言って・・・」
 思わず頬に手を当てると濡れた感触。
「・・・っ!」
 ぐいっと袖で顔を拭うと、一番近くの窓を目指してベッドを蹴った。だが布団からつま先が僅かに離れた瞬間、背中に圧し掛かる重み。
 ――逃がすかって聞こえた気がする。
「はなっ・・・せっ!」
「イヤだ」
 ぐっとうつ伏せに布団に押し付けられ、逃れようともがいた。腕を立てて体を持ち上げようとすると、今度は仰向けに転がされ、腹の上に乗って両腕を押さえつけてくる。
「離して下さい!」
「イヤです!!」
 どれほど力を入れても腕は上がらない。カカシさんの指が肌に食い込むように腕を締め付ける。
 抗っても解けない強い力に、はっ、はっと荒い息を吐きながら下からカカシさんを睨みつけた。カカシさんも険しい顔をしていたが、それがだんだん滲んで見えなくなっていく。幾筋もこめかみに向かって水が流れ落ちるのを感じる。歯を食いしばって嗚咽が漏れるのだけは耐えた。
「答えてよ、イルカ先生。何がそんなに悲しいの」
「しっ、しらなっ・・、知らない!」
「ウソばっかり。いい加減認めたらどうなのよ。オレのことスキなくせに」
「ちがうっ!好きじゃない!」
 違う、違う、と首を横に振った。
 認めることなんて出来なかった。認めてしまえば、またあの闇の中に突き落とされるかもしれない。大切な人を失って、周りのことには何の価値も無くて、生きてることすら意味が無くて。それなのに生きて。
 ただ一人きりで――。



 怖い。


「イルカ先生」
 いつの間にか片腕だけ拘束が解かれていた。カカシさんの指が目元を拭うように動く。心配そうに覗き込むカカシさんに瞼を閉じた。
 あの孤独と恐怖を思い出して心が冷えた。
 俺は絶対この手をとらない。
 予感がする。
 この手をとれば、俺はそれを失った時、もう・・・・。

「イルカ先生」
 呼ばれても頑なに拒絶した。
「イルカ先生」
「もう、俺に構わないでください」
 目を開けると空いた手でカカシさんの胸を押した。その手を押し返そうとカカシさんの手が掴む。
「そんなことできないよ。好きだからそばにいたい。ずっと、ずっと一緒に――」
「うるさいっ!出来もしないこと言うな!!」
 刹那、感情が爆発した。
 怒りとも哀しみともつかない感情で体の中がいっぱいになっていく。
(うそつき、うそつき、うそつき・・・・。)
 憎しみにも近い感情に支配され、目の前のカカシさんまで憎くなる。
 だれもそんな事出来やしないのに。
「うそつき」
「ウソじゃない。出来るよ!ずっとそばにいる!」
「うそだっ!みんなっ、みんな俺をおいていった!」
「そんなことしないよ。独りになんて・・・しないから」

 そんなこと出来るはずないのに。

 うそつき。

 でもそうだったらどれほど――。

「約束するから」
 手首を掴んでいたカカシさんの手が離れて背中に廻った。ぐっと体を抱き起こされて凭れかかるようにカカシさんの胸の中に納まった。カカシさんの手が背中を撫ぜる。
「約束するから。イルカ先生を独りにしない。イルカ先生が先に逝くときはついていく。オレが死ぬ時は殺してあげる。一緒に連れて逝く。だから――」

 ――オレのそばにいなさいよ。

 耳元で囁かれる毒のような言葉が甘露となって体の中に染み込んでいく。

 ああ。

「・・・・・ほんとに?」

「うん。・・・・だから、一緒にいよ?」

 ね?と答えを促すように体を揺すられる。

 だったら、もういい。

「・・・・はい」

 カカシさんの肩口に額を押し付けると目を閉じた。


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