春 10





 いつもより遅い時間に家に帰り着くと、玄関の明かりを点けた。居間の蛍光灯の紐を引き、カイが眠ってるのを見てカバンを置くと台所に立った。
 冷蔵庫の目にしゃがみこんで中の傷んだものとそうでないものと選り分ける。
 ここ最近の日課。
「来なくなるんだったらもっと早く言ってくれれば良かったのに・・・」
 一人では食べきれない食材が日々腐っていくのに溜息が漏れる。
 買いすぎなければ良かったのだ。最初から。
 カカシさんがあんまりにも美味しそうに食べてくれるから。当たり前みたいな顔して晩御飯を食べに来るから、つい。
 奥から買った覚えの無い包みが出てきて、開けてみれば牛肉だった。
『スキヤキが食べたいです』
 いつだったかカカシさんが言ってた。
「用意してくれてたんだ・・・。いつ買ったんだろう・・・」
 桜を見に行く前。カカシさんが用事があるって先に帰った時?
 ――これを買った時はもっとあの生活が続くと思ってくれてました?
 変色した肉を見ながら考える。でも・・・・。
 考えても仕方ない。
 匂いを嗅いでダメなのを確認してゴミ袋に入れると、落ちた肉が袋の中で重たい音を立てた。
 その音を聞くのがひどく辛い。
 ずっと続けば、と思ってた。それほどカカシさんとの生活がいごこち良かった。
 どうして?と思わずにはいられない。
 桜を見に行った日、カカシさんがあんなこと言い出しさえしなければ、ずっとあのままでいられたかもしれないのに・・・。
 自分勝手な都合の良い考えが思い浮かぶが――。
(―違う。)
 俺がカカシさんのこと受け入れられない限り、いつか終わりがくる生活だったのだ。それがあの日になったというだけで。
 ブーンと音を立て始めた冷蔵庫に、使えそうな野菜をいくつか取り出すと扉を閉めた。
 干からび始めたキャベツの葉を毟れば中の葉は比較的瑞々しい。傷んだところを千切りながら何枚か葉を毟ると適当な大きさに切った。他の野菜も同様にして切るとフライパンに油を引いてさっと炒めた。出来上がったものを皿に盛るとご飯を茶碗に入れて卓袱台に運んだ。

「いただきます」
 言ったところで返事を返してくれる人は誰もいない。一人きりの食卓。
 全部自分で選んだことだ。
 今は辛くてもいつかそれが薄れていくのを俺は知っている。
(だからそれまでの辛抱・・・)
 簡単な食事を済ませると流しに茶碗を運んで洗った。
 毟った葉もゴミ袋に捨て袋の口をぎゅっと縛った。明日捨て忘れないように玄関先に置くと、玄関の明かりを落とした。



「カイ、おいで」
 風呂から上がると、小箱の中で眠ってるカイの首や頭を撫ぜて揺り起こした。薄く目を開けたカイの髭がぴくぴく動き出す。ふんふんと指先に鼻を押し当ててくるのに、小さな体を持ち上げて手の平の上で遊ばせた。
 カカシさんが去ってもカイは残った。
 作ったことを忘れてしまったのか、覚えていてももうどうでも良くなったのか。カイは消されずに済んだ。
 かわいい、カイ。
 式であるカイはほとんど手のかかることがない。いっそのことほんとに生きてくれてたらと思う。もっと世話をしてやりたい。ご飯を食べさせたりトイレの世話をしたり、体を洗ってやったり。
 前にカイが何でも口に入れるから、一度試しに餌をやってみたことがあるが、糞を出さないカイに怖くなって止めた。余計なことをして消えられたら困る。何にも無い部屋で本当に一人になってしまう。
 前はそれが当たり前で平気だったのに。

「寒いね」
 もう春も終わろうというのに、ぐっと冷え込んだ夜の空気に身震いすると、まだ眠たそうなカイを箱に戻さずベッドに運んだ。布団を被ってカイを寝てる間につぶさないように枕の横に置くと、眠れるようにそっと撫ぜた。


『イルカセンセ、カイばっかりかわいがりすぎ』

 ふと、カカシさんの言葉が蘇る。持ち帰った仕事を片付けながら、寄ってきたカイと遊んでいると、カカシさんまで寄ってきた。
『あ、駄目ですよ。まだ仕事してるんですから』
 邪険に追い払うとカカシさんが拗ねた。
『今、遊んでたじゃないですか』
『カイは別です』
 なーとカイの首筋を掻いていると、『そんなことい』って、とカカシさんが頬を膨らませた。
『どうせ可愛がるんならオレにしなさいよ』
 横から手を伸ばしてカイを撫ぜながらカカシさんが言った。
 途端に心臓がドキドキして、まともにカカシさんの顔が見れなくなった。動揺してるのを悟られたくなくて、 聞こえなかったフリして仕事に向き直った。
『オレだったらイルカ先生が注いでくれた愛情を倍にして返してあげるよ?ずっと傍にいて、大切にしてあげるよ?』

 張り詰めたものが溶けていくような優しい言葉に心が揺らいだ。

 欲しい、と。

 真綿で包むようにその腕の中に入れてもらえるのかもしれない。彼がそう言うように大事にしてもらえるのかもしれない。
 彼の手を取れば――・・。

 でも――・・。

 でも俺が本当に欲しいのはそれじゃない。

『何いってるんですか』
 仕事の邪魔邪魔と追い払いながら、その無邪気さを羨ましいと思った。
 ずっとだなんて。
 どうしてそんな風に思えるのだろう。
 上忍なのに。
 俺なんかよりもっと沢山の人を失っただろうに。
 知りたい、と思った。聞いたら教えてくれるかも知れない。でもその問いを口に出すことは出来なかった。
 だってそんなみっともないこと。

 ・・・でも知りたい。

 カカシさん。

 どうやったら俺は――・・・。


 カカシさん――。



 今にも口から出そうになった呼びかけは、再びテレビに視線を戻したカカシさんに行き場を失った。さっき俺に言ったことなんて忘れてしまったみたいにテレビを見て楽しそうに笑う。

 ――おいていかれた。

 不意にそんな気持ちになった。




 また、俺だけ、おいてけぼり――・・。






 瞼を刺す光に目を開けた。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。点けっ放しだった蛍光灯の光が部屋の中を煌々と照らしている。窓の外を見れば、東の空にある雲が僅かな光に浮かび上がっていた。
(もうちょっと寝よう)
 明かりを消そうとベッドから降りると、パタパタと音を立てて足元に何か落ちた。
(汗?)
 そんなに熱くないのに、と顔を拭えば後から後から手の甲が濡れる。その正体に気づいて、――堰を切ったように溢れ出した。
「ぅう・・ふ、・・っ」
 抑えようにも嗚咽まで漏れてしまって、もう泣いてしまったほうが楽だと吐き出すように泣いた。
 カカシさんがいなくなってからずっと胸の中にあったものを。
 淋しいという気持ちを。
 密かに隠し持っていたカカシさんへの気持ちを。
 ほんとはもっと前に捨てれば良かった。
 あの夜、林の中に。
 カカシさんが俺を置いてったみたいに。
 それでもそうしなかったのはまだ心のどこかで期待してたから。
 あれで最後になるなんて思ってなかった。
 また、前みたいに仲直りできると思ってた。
 だから――。
「うぇっ、ああ・・・っ、ひっ・・く」
 耳に入る子供みたいな泣き声に耳を塞いだ。
 泣きたくなんてない。
 全部自分で決めてやったことだ。
 解っていて、カカシさんの手を取らなかった。
 そう思っても勝手に溢れ出してくる涙にカイを探した。一人はいやだ。
 振り返って枕元にいるはずのカイを探すが見つからない。まさか、と思って布団を捲るがそこにも。
「カイ?」
 どこいっちゃったんだよ。
 部屋の中を慎重に探すが、いない。
 どこにも。
 急に心臓が冷えて涙が止まった。
 神経を集中させてカイの気配を探る。
 だけど、見つからない。
 カイから僅かに感じていたカカシさんの気配は部屋のどこにもなかった。


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