言わせたい 8


 一人でイルカの家に訪れてから、イルカに会いに行くのに抵抗がなくなった。イルカはいつでもオレを歓迎してくれる。
 任務から帰ると、まっすぐにイルカの家に行った。背伸びして、高い所にある呼び鈴を押すと、ブーッと家の中に音が響いた。耳を澄まして、とたとたとイルカの足音が聞こえてくるのを待った。
 でも今日は大人の気配が近づいて来た。イルカの父だ。
 ガラス戸の向こうに大きな影が映る。ガラガラとドアが開くと、イルカの父が姿を見せた。
「こんにちは、カカシ君」
「こんにちは。…イルカは?」
「今、お昼寝をしてるんだよ。上がって?」
 追い返されるのかと思ったオレは、ホッとしてイルカの家に上がった。居間に入ると、イルカはソファで寝ていた。
「退屈して寝てしまったんだよ」
 父親が家にいるのに寝てしまうなんて珍しい。でもその原因はすぐに分かった。
 オレにお茶を出すと、イルカの父はメガネを掛けて巻物を広げた。ずっと調べ物をしていたのか、彼の周りには、広げたままの巻物が何本も転がっていた。
 ポーチから巻物を出すと、イルカが目を覚ますのを待った。
 静かな部屋に、イルカの寝息と紙の擦れる音だけが響く。
「…退屈じゃないかい?」
 しばらくすると、イルカの父が聞いた。
「いえ」
「何の巻物を読んでるの?」
「……兵法」
 イルカの父と面と向かって話したことはない。突然話し掛けられて居心地の悪さを感じていた。
(今日は帰った方が良いかな…)
 でもイルカと話したい。お土産だって、まだ渡してなかった。
「そう…凄いね。そうだ、良かったらこっちの部屋に来てみないかい?」
 イルカの父に誘われて、しぶしぶ立ち上がった。これから先もイルカの家に遊びに来るなら、彼とも仲良くしておいた方が良いだろう。
 でも、ただ優しいだけの雰囲気を醸すイルカの父が苦手だ。
 部屋を出て行くイルカの父に、迷いながら付いて行った。
 向かった先は書斎だった。古い巻物がいくつも大切に保管されている。
 子供のオレが見ても、貴重価値があるように見えた。
「好きなの読んでくれて良いよ」
「えっ、でも…」
 こう言うのは、その家代々伝わっている物なんじゃないだろうか。はたけ家にもある。門外不出で一族以外の者が見られない巻物が。
「うみの家はね、水遁を得意とする一族なんだよ。印の事とかかいてある」
「待って!」
 突然制止を掛けたオレを、イルカの父が吃驚した顔で見ていた。
「その…、オレが見てもいいの? 一族の秘密なんじゃ…」
「ああ、構わないよ。私の一族はその辺りのことは拘らないんだよ。来てくれれば、誰にでも公開してるんだ。優れた術があるなら、みんなで使えた方が良いだろ?」
 イルカの父は当たり前のようにそう言うと、オレを残して部屋を出て行った。
 ――みんなで使えた方が良い。
 イルカの父の言葉を反復した。そんなのは理想だ。強い術は力となる。力は権力となり、富や名声を生む。人はそれに固執する。
 だから一族は術を守り、利益が外に漏れるのを防ぐ。
 どう考えても、イルカの父と反対側のことをした。オレはそれを大人の影から見てきた。
 イルカの父はお人好しすぎる。こんなことではイルカの将来が不安だった。
(でも…)
 オレは、イルカの父の考え方に気持ちを揺さぶられた。
(そっちの方がいい…)
 理想だと分かっていても心が惹かれた。それに、イルカにもそうあって欲しい。利益だけを追い求めるような大人になって欲しくなかった。
 オレはしばらく考えた結果、目の前の巻物に手を伸ばした。
 巻物はとても古い物だったけど、手入れされ埃も被っていなかった。
 イルカの父の、海野家の人柄が窺える。
 紐を解くと巻物を開いた。術は丁寧な文字と具体的な絵柄で描かれていた。
 床の上に座り込むと、じっくりと読みふけった。
 何本巻物を開いただろうか。とたとたと足音が近づいて来て顔を上げた。
「おにいちゃん!」
 顔だけで振り返っていると、走ってきたイルカがどんっと背中に被さった。
「おはよ、イルカ」
「おはよー」
 寝癖で髪を跳ねさせたイルカがにこーっと笑った。振り返ろうとすると、イルカは背中から下りてぺたんと座った。
「よく眠れた?」
「うん。おにいちゃん、何してるの?」
「術の勉強をしてたんだよ」
「ふぅん」
 イルカが感心したように頷いて、じっと巻物を覗き込んだ。
「これ、なんて書いてあるの?」
「『水遁 水飴拿原』だよ。水にチャクラを混ぜて粘度を高め、敵の行動を制約する。…簡単に言うと水を水飴みたいにして――」
「水が水飴になるの!?」
 顔に期待を浮かべたイルカにクスリと笑って巻物を閉じた。
「水飴だったらチャクラを使わなくても作れるよ」
「ほんとう?」
「ウン」
 立ち上がるとイルカを連れて居間に戻った。
「…おじさん、台所を借りてもいいですか?」
「ああ、いいよ。…お腹空いたの? だったら――」
「いいんです。水飴を作りたくて」
 立ち上がり掛けたイルカの父を止めた。初めてイルカの父に呼びかけた。『おじさん』と呼んだことを咎められなくてホッとした。
「水飴?」
「おにいちゃんが作るの!」
 嬉しそうに飛び跳ねるイルカに、イルカの父…おじさんは目を細めた。
「そうか、良かったな。好きに使ってくれて良いよ。砂糖の場所は、…イルカ知ってる?」
「うん、知ってる!」
「じゃあ、お兄ちゃんに教えてあげてね」
「うんっ」
 役目を仰せつかったイルカは誇らしげに頷くと、オレの手を引いた。
「お砂糖ここだよ」
「ウン」
 指差すイルカに頷いて、アルミ箔と油を探した。それらはすぐに見つかり、アルミ箔を引き出して上に油を塗った。
「これなぁに?」
「ここに出来た飴を流すんだよ」
「ふぅーん」
 イルカは何にでも興味を持って聞いてきた。以前のオレだったら面倒臭がって答えなかっただろうが、イルカに質問されるのは頼られてる気がしてスキだった。答えられる自分が誇らしい。
 オレはイルカに教えられた砂糖と水を鍋に入れると火に掛けた。水飴は兵糧丸を作る時に良く作っていたから得意だ。
 ふつふつと粘度の高い泡が立ち、周りが焦げてくると火を止めて別に湧かしてあったお湯を少量入れた。飴になりかけた水面が驚いて、さーっと弾けて、やがて静かになった。スプーンで全体を掻き混ぜて、糸を引くのを確認してから、油を引いたアルミ箔の上に流し込んだ。
 小さな水溜まりをいくつも作る。とろりと流れる黄金色の水飴に、イルカの目がキラキラ輝いた。
「食べていーい?」
「まだだよ。まだ熱いから食べられないよ」
「そうなの?」
「ウン、良く冷ましてから」
 甘く香ばしい匂いが台所に広がり、待ちきれないイルカがぴょんぴょん跳ねた。その様子が可笑しくて、笑いが込み上げる。小さく笑うとイルカもにかっと笑った。
「楽しみだね!」
「ウン」
 水飴を作るなんて任務準備の一環でしかなかった。それが今は食べるのが楽しみで仕方なかった。
 冷蔵庫に出来たばかりの飴を入れ、後片付けを始める。飴の固まったスプーンに気付いてイルカの口に入れると、イルカはほっぺたが落ちそうな顔をした。
「おいしい…」
「そう?」
 スプーンに付いた飴はすぐに溶け、イルカがもっとって顔をした。イルカの反応が嬉しくて、オレは楽しくて仕方無かった。
 飴が冷めるのを待つ間、イルカとオレは庭に出た。イルカが前に植えたひまわりを見せてくれると言う。
「ボクより大きくなったんだよ」
 イルカはひまわりの隣に並ぶと背伸びした。ひまわりはイルカの背を追い越し、大きな葉を広げていた。ちょうどオレと同じぐらいか。
 うーんと伸びをするイルカを抱き上げた。二人合わせて背が高くなった分、イルカがひまわりを追い越した。
「ボクの方が大きい!」
 イルカがきゃっきゃっと笑い声を上げた。見上げると、初夏の日差しが照りつける。逆行になったイルカがオレを見下ろし、ぎゅっと抱き付いた。
 イルカの汗の臭いが鼻腔を擽る。日差しより高い体温に抱き付かれ、じっとり汗を掻いた。
「イルカ…」
「うん?」
 真っ直ぐ見つめられて我に返った。「…そろそろ飴を食べてみよう」
「うんっ」
 元気良く頷いたイルカはオレの腕から下りて、家の中へ入っていった。額の汗を拭って中に入る。
 一体オレは何を言おうとしていたのか…。
 冷えた飴をアルミ箔から剥がして皿に移した。白い皿の上に透明な飴がいくつも並ぶ。それは光を梳かして琥珀みたいに見えた。
「きれい!」
「ウン。食べていーよ」
 促すと、イルカは一つ摘んで口の中に入れた。もごもごと舌の上で転がして、んーっと幸せそうな笑みを浮かべる。
 オレも一つ取って口の中に入れると、舌に甘みと香ばしい味が広がった。普段甘い物を食べないが、幸せそうなイルカの顔を見ていると美味しく感じた。
「とうちゃんにもあげていい?」
「えっ、ウ…ウン」
 こんなものを大人が喜ぶだろうか?
 そう思ったけど、イルカは皿を頭の上に掲げ持つと、居間に向かってとことこ走って行った。後を付いていくと、イルカは仕事をしていた父親の前に皿を突き出した。
「とうちゃーん、アメ出来たよ」
「お、凄い。べっこう飴か。懐かしいなぁ…」
 そんな二人の会話に、カッと頬が火照った。恥ずかしい。凄いと言って貰えるほど、大したものは作っていない。
「食べて、食べて!」
「ありがとう、いただきまーす」
「おいし?」
「うん、おいしいよ。ありがとう、カカシ君」
「いえ…」
 頬を火照らせたまま俯いた。どうしてこんなに気恥ずかしくなるのだろう。任務で誉められても、当たり前のことと受け止められるのに。
 自分の心境に戸惑った。この家にいると、知らぬ間に抑え込んでいた感情が溢れてきた。
 嬉しい、楽しい、恥ずかしい、照れ臭い。
 どれも任務で必要の無い感情だ。でも笑うイルカとおじさんを見ていると、そうでも良いかと思えた。
(任務以外の時は、もっと楽しんで良いんだ…)
 さあっと目の前が拓けた気がした。心に羽が生えて、舞い上がったように軽くなる。
「おにいちゃん!」
 イルカの楽しげな声が弾けて、オレはイルカ達親子の輪に入った。
「おじさんもね、子供の頃に作った事あるよ」
「ホント?」
「うん。お腹が空いてね。親の目を盗んで――」
 その時、ブーッと呼び鈴が鳴った。おじさんがおや?って顔をして立ち上がった。外の気配を探る。忍だ。
(任務だろうか?)
 どっちに? と思ったところでおじさんが戻ってきた。
「ゴメン、二人とも。話の途中だけど任務が入ったんだ。すぐに戻れると思うけど…カカシ君、イルカのことお願い出来るかい?」
「はい」
「イルカも、おにいちゃんと一緒にお留守番してくれる?」
「うんっ、いーよ」
 大好きな父親が行ってしまって、イルカが寂しがるんじゃないかと思ったけど、イルカはニコニコ笑っていた。玄関でも、忍服に着替えた父親に笑って手を振る。
「いってらっしゃい!」
「ああ、行ってくるよ」
 おじさんは僅かに眉尻を下げたけど、オレを見ると頷いて任務に出掛けた。






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