言わせたい 4
朝食の用意をしていると、ばたばたと駆け寄る足音が聞こえた。イルカが起きたらしい。
「かあちゃ…!」
言い掛けたイルカが口を噤んだ。弾けそうな笑顔がみるみる萎んで、それからにっこり笑った。
「カカシ、兄ちゃん、おはよう」
「ン、オハヨ」
言い掛けた言葉については言及しなかった。イルカと過ごしたのは、たった一日だが、なんとなく気持ちが分かるようになっていた。
イルカは寂しいのだ。一人で遊んで笑顔を見せるけど、本当に楽しんでるワケでもないのだろう。先日イルカがオレと遊んで楽しかったと言ったのも、父親に心配をかけないようにだろう。
まだ三つの子供のくせに自分の両親の仕事を理解し、我慢している。イルカは聡明な子供だった。
「イルカ、目玉焼きは何個食べる?」
「ふたつ!」
「ん。作っておくから、顔洗ってきな」
「うんっ!」
元気良く返事したイルカが駆けて行った。テーブルに着いたイルカの目の前に目玉焼きを載せた皿を出すと、イルカは自分で立ってケチャップを出した。
「…イルカはいつも一人でお留守番してるの?」
「ううん。おばちゃんのトコに行く」
「おばちゃん?」
「うん」
(誰のことだろう?)
気になったが、食べ出したイルカはご飯に夢中で、これ以上話を聞き出せそうになかった。
(面倒を見てくれる人がいるなら、何故今回オレに任せたんだ?)
また疑問が湧き上がる。それを考えるのが課題だろうか?
食事の片付けが終わると、イルカはまた画用紙を出した。それを持って庭に下りると、小さな苗の前でしゃがんだ。黄緑色のクレヨンを手にとって何やら描き出す。
「…何描いてるの?」
「あのね、夏になったら大きな花が咲くんだって。えっと…ひわまり?」
「ひまわりだよ」
「うん、そう! ひわまり! ボクよりおっきくなるって、父ちゃんが言ってた」
イルカは舌が短いのか『ひまわり』が言えなかった。言ったつもりで満面の笑みを浮かべたイルカの画用紙を覗き込むと、小さな双葉が描いてあった。すでに描き上がったらしく、イルカは次を探して庭を見ていた。
だが、クレヨンに触れる手が何も描き出さない。
「……イルカ、外に行く?」
何気なく提案すると、イルカが弾かれたように振り向いた。
「うんっ! 行く!」
出会った中で一番の笑顔を見せたイルカに正直驚いた。そんなに喜ぶとは思って無かった。
「カカシ、お兄ちゃん早く」
待ちきれないように足踏みしだしたイルカの足下を見ると、大人用のサンダルだ。
「イルカ、その靴じゃダメだよ。ちゃんと――」
「うんっ」
言い終わる前に、イルカは居間に上がると玄関へ走って行った。
戸締まりを済ませて玄関に向かう頃、イルカはオレを待ちくたびれて三和土にしゃがみ込んでいた。それでもオレの顔を見ると笑って飛び跳ねた。
「お兄ちゃん、早く行こ」
ガラガラとドアを開けると、外へ駆けだした。
「あっ」
先に行くイルカに慌てて声を掛けようとすると、立ち止まって振り返る。それから少し戻って、オレが来るのを待った。
家を出てからもその調子で、イルカはオレが追いつく前に先へ進む。その様子は子犬のようで見ていて飽きなかった。
「お兄ちゃーん」
離れた所で手を振る。イルカの呼び掛けから名前が消えているのに気付いたが、イルカの中でオレの存在が身近になった気がしてくすぐったかった。
追い着きそうになるが、今度は先に行かず、オレが到着するのを待った。
「どうしたの?」
「…どっちに行ったらいーい?」
小首を傾げるイルカに首を傾げた。
「イルカはいつもどこで遊んでるの?」
「おうち」
「お家以外の時は?」
「んーと、おばちゃんとこ」
「おばちゃんって誰?」
「かぁちゃんの友達」
「ふぅん」
さっき知りたかった情報を得て、頭の隅に追いやった。察するに、イルカは外で遊ばないのだ。連れ出してくれる人がいないのだろう。
イルカは三歳でまだアカデミーは早い。オレが三歳の頃は…と、イルカを見て諦めた。オレが三歳の頃、父さんに付いてすでにクナイを握っていた。
同じ事をイルカが出来ると思わなかった。かと言って、子供の遊びも思いつかない、
「イルカはどこに行きたい?」
「んっとねぇ、水遊びがすき」
「水か…」
それなら庭で十分だったんじゃないか。水撒き用のホースが蛇口に付いていた。だけど、なら帰ろうと伝えるには、イルカの顔は輝きすぎていた。
「川に行ってみる?」
「うん!」
父さんと来た道を思い出しながら提案すると、イルカは元気に頷いた。小さな手がきゅっとオレの手を握って先を促す。
「はやく、はやく!」
歩き出したイルカに手を引かれて照れ臭くなった。玄関でならともかく、外で手を繋ぐのは恥ずかしい。
でも何故かイルカの手が解けなかった。我慢したまま歩いたが、そのうちはしゃいだイルカがスキップを踏み出した。
(…やめてよ)
恥ずかしさのあまり顔が赤くなる。こんな子供じみた姿を、同僚には絶対見られたくなかった。
今すぐ手を解きたい。せめてスキップだけでも止めさせたかった。だけど笑ってるイルカを見ると何も言えない。
どういうワケか、オレはイルカをガッカリさせたくなかった。
笑ってる顔を見ていたい。昨日、泣いた顔を見たからだろうか。普段笑っているイルカが寂しさを我慢しているのを知ってしまった。だからだろうか?
やっと手を開放されたのは、川が見えてからだった。イルカがオレの手を離して走り出す。ホッとして、体から力が抜けた。イルカと繋がっていた手は汗を掻いて湿っている。
(イルカの手が熱かったからだ…)
誰にともなく言い訳をして、ポケットに手を突っ込んだ。イルカを見ると、河原で靴下を脱いでいる。
「えっ、入るの!?」
慌てて河原に下りた。
「待って、イルカ!」
そこは水深が深いかもしれない。泳ぐ準備だってしていないし、体を拭く物も無い。
イルカはオレが声を掛けると、靴下を両手に振り返った。そしてにかっと笑うと、「早くー!」と言った。
(まったくもう…)
オレが一緒に遊ぶと思っているらしい。隣に並んで水面を見ると、イルカの腕を掴んだ。
「ここはダメ。流れが速いよ。靴を履いて。もっと川下に行くよ」
「うんっ」
イルカは元気に返事して、ポケットに靴下を突っ込むと靴を履いた。そしてオレの手を握る。歩き出すと、イルカは鼻歌を歌った。良く分からない歌だ。でも機嫌が良いらしい。時々クスクス笑ってオレを見上げる。
「…どうしたの?」
「カエルさん、いるかなぁ?」
「あぁ、いるんじゃない」
「ぴょーんと飛ぶんだよ」
ぴょーんと、と飛んでオレに見せた。
「そう」
オレのそっけない返事は気にせず、イルカはきゃっきゃと笑った。
なにがそんなに楽しいんだろう。カエルなんて別に珍しいもんじゃない。
「カエル捕まえたことある?」
「あるよ」
父さんとサバイバル演習をやったときに捕まえて食べた。でも、イルカが言ってるのはそういうことじゃないのだろう。オレを尊敬の眼差しで見つめている。
「カエル、早いんだよ。捕まえようとするとぴょーんって!」
「ウン」
「僕も捕まえる!」
「そう」
イルカは決意を表すように、オレの手をぎゅっと握った。
丸い石が見え隠れする流れを見つけてイルカの手を離した。イルカは靴を脱ぐとすぐに川の中に入っていった。くるぶしが浸かるぐらいの浅瀬だが、イルカは文句を言うこともなく、バシャバシャと水しぶきを上げて楽しげだ。
「兄ちゃーん」
手を振るイルカに河原から応えた。水遊びなんて子供の遊びだ。オレはしない。イルカに注意を払いながら巻物を広げて勉強の続きを始めた。
視線を感じたけど、そのうちイルカは一人で遊びだした。屈んで水の中をのぞき込んだり、石をひっくり返したりしている。
しばらく放っておくと、巻物に影が差した。顔を上げると、イルカがしょぼくれて立っていた。
「…どうしたの?」
「カエルいない…」
空を見上げると、盛大に晴れ渡っている。耳を澄ましても鳴き声がしなかった。
「雨が降ってないから隠れてるんだよ」
「かくれんぼするの?」
「ウン」
オレは父さんから聞いたカエルの生態をイルカに教えた。カエルが水の中だけじゃなくて陸上や木の上にも住んでいること。虫を食べること。
カエルは自分から餌を取りに行かないで、隠れて目の前を餌が通るのを待っている。
「こっち」
立ち上がると、草の生えたところに連れて行った。慎重に草をかき分けて探していくと、葉の緑に隠れて小さなカエルが潜んでいた。
「イルカ」
小さな声で呼ぶと、イルカはオレの隣から草むらをのぞき込んだ。カエルを見つけて目を輝かせると、オレを振り返る。
「捕まえていい?」
「いーよ」
小さな手がそうっとカエルに延びていく。だけど、その手が恐れるように引っ込められた。どうやらイルカはカエルに触れるのが怖いらしい。手が行ったり来たりしている間に、カエルはぴょんと跳ねて別の場所に移動した。
「あっ」
焦ったイルカが声を上げると、カエルはもう一度草を蹴った。その飛び跳ねた瞬間を狙って、さっと手を翻す。カエルの足を掴んで目の前に差し出すと、イルカがぱあっと笑った。
恐る恐るカエルを両手の中に閉じこめたイルカに、カエルの足から手を離すと、カエルはイルカの手の中で跳ねた。
「わっ、わっ」
イルカがばたばたと足踏みをしてその感触をこらえた。それからそうっと指の間に隙間を作って、中のカエルをのぞき込む。カエルが隙間からぬっと顔を突き出した。
――ゲコ。ゲェコ。
カエルの喉が膨らんで鳴き声を漏らす。
「わぁ」
イルカが手を開くと、カエルは伸ばしていた足を縮めて跳躍した。大きな弧を描いて着地すると、二度三度と跳ねる。イルカと追いかけていくと、ポチャンと川に落ちて、足を屈伸させる滑稽な泳ぎでキラキラと光る水面に消えていった。
「おもしろかったね!」
「ウン」
ぎゅっと手を握られて思わず頷いていた。手を離したイルカがまた川の中に入っていく。きょろきょろ辺りを見回して、泳いでいったカエルの姿を探していた。
振り返ると、置き去りにした巻物が風にはためいていた。
昼になると魚を捕まえた。イルカと二人で石を積んで流れをせき止める。そこに川上から魚を追い立てて、練習中の技で川に電流を流した。
ぷかりと浮かんできた魚を集めて、クナイで腹を捌いてきれいにすると、枝を刺してたき火で焼いた。
父さんとしたサバイバル演習と同じことだけど、イルカとするとどこか違った。
なんだか楽しい。イルカがいちいち感心して、オレを尊敬の眼差しで見るからかもしれない。イルカにそんな風に見られると得意げな気持ちが湧いて、気分が良くなった。
お腹がいっぱいになると、イルカと笹舟を作って川に流した。水の流れに乗って進んでいく舟にイルカが歓声を上げた。追い掛けると、舟は光る水面を揚々と走っていた。イルカの笑顔が弾ける。楽しい。
(楽しい…)
「イルカかー?」
今まで感じた事の無い感情を確かめていると、イルカの名を呼ぶ声が聞こえて、イルカが弾かれたように振り返った。見上げると、土手の上に大人が二人いた。
「とうちゃん!」
イルカが一目散に駆けだした。小さな手足を一生懸命動かして、父親に向かって走って行く。辿り着くと飛び付こうと跳ねたイルカの体を父親が受け止めて抱き上げた。
「とうちゃん、おかえり!」
イルカの笑い声が聞こえる。
振り返ると、笹舟は何処かに行って見えなくなっていた。あれほど輝いて見えた水面が色褪せて見える。
「カカシ、行こう」
父さんに呼ばれて土手を上がった。四人揃うとイルカの家に向かって歩き出した。もうイルカの家に用は無かったが、オレの荷物があるからだと気付いた。
目の前を父親に抱かれたイルカがいた。楽しそうに笑って、父親だけを見ていた。
ぽふと頭の上に手が乗って、父さんを見上げた。
「楽しかったか? カカシ」
「…ウン。楽しかったよ、父さん」
でも寂しく感じるのは何故だろう。
玄関先でイルカはオレを笑顔で見送った。父親の手をしっかり握りしめて、空いた手をバイバイと振って見せた。
オレはリュックの肩紐を握りしめて、僅かに顎を引いた。
「また会える?」
なにも言わずに玄関を出ようとしたらイルカが聞いた。澄んだ目は何も考えていなかった。ただ疑問に思ったことを聞いただけだ。父さんを見上げると、ああと言った風に頷いた。
「…会えるよ」
小さく答えると、イルカは破顔した。
「またね!」
「…ウン。また」
胸の中がシュワ―と炭酸が弾ける様にくすぐったくなった。頬が紅潮して、オレはますます口布を引き上げた。
「それじゃあ海野…」
「ええ。お疲れさまでした、サクモさん」
父さん達の声を耳にふわふわと歩き出した。「バイバーイ」とイルカの声が追い掛けて来た。