絶対言わない 10
風が少し冷たくなって、病室に戻った。
時折振り返りながら話すカカシに相槌を打ちながら車椅子を押す。
ゆっくり病室に向かいながら車椅子のハンドルを持つ手が汗ばんだ。
彼女はもう帰っただろうか・・?
考えてみればあの人がカカシの見舞いに来たとは限らない。
誰か他の人のお見舞いかもしれない。
都合のいい事を考えながら、それでも廊下で会ったりしないように注意を払った。
会いたくなかった。
ましてやカカシの病室でなど――。
「到ー着ー!」
部屋の前に着くとカカシが手を伸ばしてドアを開けた。
心の準備をする間もなく、ドアが横にスライドする。
その瞬間、ふわりと空気に乗って運ばれてきた香りに胸がずしりと重くなった。
気配はない。
ドアから見える空間に彼女の姿は見えなかったが、病室を出る時には無かったものがあった。
立ち止まると、ハンドルが手から離れていく。
カカシは自分で車椅子を押して中に入ると真っ直ぐベッドサイドへ向かって行った。
辿り着くと振り返って零れるような笑顔を見せる。
嬉しそうなカカシにぺしゃんと胸が潰れた。
「見て、花だよ」
誘われて隣に並んだ。
ベッドの隣の机の上に花瓶に活けられた花があった。
オレンジ色の花だけで作られた花が綺麗に咲いている。
それぞれの形や大きさが違い、贈り手が心を尽くして花を選んだ様子が窺えた。
明らかに、想いの篭った花束。
カカシにはその贈り手が誰であるか心当たりがあるようだった。
贈り主が誰とも分からぬ花に警戒を見せる様子はない。
・・・カカシには見えてなかったのに・・。
階段を上っていく彼女が手にしていた花束を思い出す。
それは確かにこんな色をしていた。
「綺麗だね」
「うん・・」
花に伸びていくカカシの手を掴みたかった。
嫌だ、触るな!
だけど実際には声すら出せずにカカシの動きを見ているだけだった。
指先が柔らかく花びらに触れる。
見たこともない表情で、愛しげに。
――カカシが遠くに行ってしまう。
そんな予感がして酷く心細くなった。
「・・・カカシ」
「ん?・・どうしたの?」
「ベッドに戻ろう・・、疲れただろ」
「あ、うん」
花から関心を奪いたくてカカシに声を掛けた。
背中と膝裏に手を回すと体を抱き上げる。
自然と首に回った腕に泣きたくなった。
首筋にカカシの髪が触れる。
温かくて、手放したくない。
ベッドに下ろした瞬間、反動のフリをしてカカシを抱きしめた。
ほんの一秒だけ、カカシに気付かれないように。
「イルカ・・」
「なに?」
気付かれたのかと体を離そうとするとカカシが腕を掴んだ。
すぐ近くで顔を覗き込んでくるカカシの視線を逃げずに受け止めた。
「・・ううん、疲れてるんじゃないかと思って・・。最近ムリさせてるから・・、朝も早いし・・」
「なにいってんだよ、疲れるわけねぇだろ。いっつも子供相手してんだし。これぐらいなんともないよ」
「そう?でもなんだったらイルカもここで寝ていーよ?まだスペースあるし」
隣を空けてぽんぽんとベッドを叩くカカシに、「ばあーか」とふざけて返すと布団を掛けた。
子供の頃、よくカカシと一つの布団を分け合って寝たことを思い出す。
月の明かりしかない部屋でカカシにくっついて眠った。
もう二度とあんな風に眠ることは無いだろう。
イスを引き寄せて傍に座るとカカシがほっとしたような笑みを浮かべた。
「イルカ、アカデミー楽しい?」
「うん、まあ。弟がたくさん出来たみたいで。・・まだ見習いだからクラスは持たせてもらえないけど、来期は任せてもらえるように頑張るんだ」
「そう。早く先生になれるといーね」
「うん」
「イルカならいい先生になるよ」
カカシの言葉ににかっと笑って、なんでもないフリで会話を続けた。
日が暮れて帰る頃になるとカカシが俺を引き止めた。
「ちょっと待って」
新聞を取り出すと活けてあった花を花瓶から抜いて包んでしまう。
「はい」
差し出された花束に戸惑っているとカカシは極上の笑みを浮かべた。
「はい、イルカにあげる」
どうして?
喉まで出かかった言葉は飲み込んだ。
カカシの意図することが分からない。
それでも手を伸ばして花束を受け取った。
「・・ありがと」
「うん!」
どうしてカカシがそんなに嬉しそうに笑うのか分からない。
どうしてカカシがそんなに幸せそうなのか分からない。
ただ俺が分かっているのは、この花の行き先だけだった。
「じゃあ帰るよ」
「うん、明日も来てね」
「ああ」
バイバイと手を振るとカカシも振り返した。
扉が閉まる瞬間もカカシは俺のことを見ていた。