「……ゴメン、ちょっとトイレ」
掛け込む様にトイレに入って鍵を閉めると壁に手を突いた。
(兆してたまるか……!)
沸き上がる性欲を根性でねじ伏せる。その気のない相手に催したくなかった。
しばらくそこで体を落ち着けて、部屋に戻るとイルカ先生がいない。
「…アレ?」
また布団の上で戯れているのかとベッドを見に行くが、そこにもイルカ先生はいなかった。
(どこに行ったんだろ……?)
玄関を出て行った様子は無かった。もう一度部屋に戻ると、ソファの影に黒い毛玉を見つけた。
「なにやってるんですか、イルカ先生…」
小さな体を掬い上げて膝の上に乗せる。数日ぶりに見た黒い毛皮はまさしくクロのもので、手の平で背中を撫でた。艶やかな黒い毛が気持ちいい。
「……クロ」
名前を呼んで頭を撫ぜてやると、「ニャー」と鳴いて丸めていた体を伸ばした。小さな爪を立てて、肩へよじ登ってくる黒猫の体を支える。ふんふんと耳元で息を吐かれてくすぐったかった。
「ふふっ、こそばゆ〜いよ」
頬を柔らかい毛に擦りつける。しばらくじっとしていたイルカ先生がピスピス鼻を鳴らした。
(えっ!泣いてる!?)
立てた爪を引き剥がして、正面で抱き上げるとふいっと視線を逸らす。濡れた鼻はテカテカで、つーっと流れ出た水が糸を引いた。
「……解!」
無理矢理変化を解くと、ぼふんと煙を上げて人に戻ったイルカ先生の両目両鼻から、だーっと水が流れ出た。
「う〜っ、……ひっく……」
「なんで泣いてるの!?」
オレの質問に答えず、もう一度印を結ぼうとする手を掴む。
「どうしてって聞いてるんです」
「だって…、カカシ先生、俺のこと好きじゃないでしょ?猫の方が良いでしょ?」
「どうしてそんなこと思うの…」
だらだら泣いている顔を拭いてやろうと思ったが、あいにくポケットにハンカチがなく、傍にティッシュも無かった。
「だって…!カカシ先生、全然優しくなかったのに……、ネコになったら優しくなった。人間の俺はいらないんですよね?だったら俺、ネコでいます……!ネコでいいから傍に置いてください!」
優しくないと言われて憤然とした。あれ以上どう優しくしろと言うのだ。オレなりに優しくしたつもりなのに否定されてへそを曲げた。それにネコのままで良いってなんだ。
「ふぅ〜ん。イルカ先生、ネコのままでいいんだ」
「あいっ!ずっとネコでいます……!」
泣いて、怪しくなった呂律で宣言する。
「あっそ。じゃあオレ、イルカ先生居ても女連れ込んでいいんだ。別に目の前で抱いたって構わないよね。ネコでいるってそう言うことデショ?」
ぽかんとイルカ先生がオレを見た。言われたことが理解出来ない、そんな顔をしている。その顔がゆっくり歪んだ。大粒の涙がぽろぽろ溢れて頬を濡らす。
「いやだ!ご主人さまは俺のだ!誰にも渡さない!いやだ!いやだ!いやだ!」
うわーーん!!と盛大に泣き出したイルカ先生にホッとした。そのぐらいの独占欲は持っててくれたようで良かったと思う。馬鹿力を発揮してしがみついてくる体をソファに押し倒した。体を浮かすと、目の前には涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔がある。なんでこんなのに惚れちゃったかな?と思う様な様相だ。
でも仕方ない。認めよう。
歪んだ唇に口吻けるとしょっぱい味がした。きっと涙のせいだけじゃないだろう。
しょうがないからイルカ先生の顔を手で拭うと服の裾で拭った。新たに目の縁から零れてくる涙を唇で掬う。
「イルカ先生、オレも男だから人並みに性欲はあります。オレが誰かと寝るのが嫌なら、イルカ先生、アナタが責任とって」
「……俺…?」
「うん、そう」
「……俺でいいんれすか?」
「ウン」
アナタがいいとは胸の中にしまっておいた。やっと人に昇格したこの人に、その言葉は勿体ないから。