『絶望』と言う言葉の意味を、初めて正しく理解した気がする。過去に哀しい事や辛い事は幾度もあったが、今ほど苦しく感じた事はなかった。
 イルカが殺される。殺されてしまう…!
「やめろ…っ!お前達の目的はオレだろう!?眼が欲しいならくれてやる。名声が欲しいなら首でも何でも持って行けばいいだろう!」
 言いながら指先を左目へ持って行った。急がなければいけないのに、痺れた腕はもどかしい程の速度でしか動かない。
「…カカ、シさん…だめ……、だめ…」
「お前は黙ってろ。今から面白い出し物が見られるんだからよぉ」
「あっ…うぅ…」
 髪を捻り上げられたイルカの眼から涙が零れ落ちた。
(急がなければ…。早くしないと…)
 指先が目蓋に掛かる。
「…だめって言ってるのに…!……嫌だ、嫌だ嫌だ!!!」
 叫んだイルカから血飛沫が上がった。目の前を染める赤に心臓が引き千切れそうになる。
「イルカァ!!」
 ガタガタベッドを揺らして体を起こそうとしたが指先がシーツを掴んだだけで――、
「がはっ」
 一瞬の呻き声に骨の砕ける音が混じった。壁に頭を叩きつけられ絶命した男が血の痕を刷きながらずるずるとずり落ちていった。その後頭部を掴んでいるのはイルカだ。
「イルカっ!」
 立ち尽くすイルカの左腕からだらだらと血が流れていた。生きていることにホッとし過ぎて泣きそうになった。さっき舞った血飛沫は腕からだったのか。てっきりオレは、オレの枷となることを嫌ったイルカが自害したのかと思ってしまった。
 だけど危機的状況を逸したワケでなく、
「イルカ、もういいよ。外に行って誰か呼んできて?ね?」
 突然の出来事に刺客達が呆然としている内に。敵ながら呆然とする気持ちが良く分かった。あれほど弱っていたイルカが大男をやっつけるなんて。動きが見えなかった。イルカがそんなことするなんて思ってなかったから油断してたのもあるけれど、きっとこの場にいる誰一人、イルカの動きを追えた者はいないだろう。
 でもそれは不意を突いたからこそだ。
「イルカ、行って!」
 だけどイルカは力尽きたのか、はあはあと荒く肩で息をするだけだった。
「逃がすわけないだろう」
 気を取り直した細身とずんぐりがイルカに迫る。距離を縮めながら忍刀を抜くのを見て、またもや焦燥に背中がちりちり焦げた。二人がちらりと目配せし合い、細身が飛んだ。構え上げた忍刀を振り下ろそうとするのに、イルカは掴んでいた大男の残骸を細身へと叩きつけると、ずんぐりへと向かった。
「うぉっ」
 細身が大男に巻き込まれながら転がり下敷きになる。ずんぐりは距離を開けようと後退したが、イルカは間合い詰めた。足を振り上げずんぐりの腹を蹴り飛ばした。
(速い!)
「ぐぇっ…」
 ずんぐりの体は弧を描いて、オレのベッドを通り越すと窓を突き破った。その瞬間けたたましく警報の音が鳴った。
(助かった!)
 これで誰か来ると安心したのも束の間、怯んで逃げを打つ細身をイルカは追いかけようとした。
「イルカ!もういいよ。護衛が来る」
 現に部屋に向かって幾つかの気配が迫っている。
「くっ」
 援護が来る前にと思ったのか細身がドアを開けて外へ飛び出した。袋のネズミだ。外には出られない。なのに、イルカは後を追った。
「イルカ!?」
 姿が見えなくなった事に不安が募る。廊下で争う音が聞こえ、気が気でなくなった。深追いする必要なんて全くないのに。
(どうして…!?イルカ…)
 シーツを掴むと指先だけで重い体を引き摺った。ベッドから転げ落ち、床を這う。
「イルカ!」
「うわ〜、床に這いつくばってるセンパイなんて初めて見た」
 のんきな声が聞こえて顔を上げた。白の暗部服にネコの面。そこに居たのは暗部時代の後輩だった。
「…テンゾウ、手を貸せ!」
「早速命令ですか。でも大丈夫でしょ。もう終わってましたから…。…あれ?」
 廊下からバキッ、ボキッと殴り合う音が聞こえてくる。
「おいっ!止めろ!俺たちは見方だ!!」
 廊下から焦る複数の気配と、ズサーッとドアの前を横切る暗部の姿が見えた。何が起こっているのか、廊下の気配が殺気に変わった。


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