あなぽこ 4
足取りが重い。
ただ家に帰るだけなのに、一向に足が前に進まない。
アパートの2階、自分の部屋に明かりが点いてるのを見て益々重くなった。
家に帰るのが怖い。
いい加減ぐずぐずしている俺にカカシさんが怒り始めている。
今日も歯医者に行ってないと知れたら、どんなことを言われるのか。
想像すると家に帰りたくなくなる。
部屋の前に立ち、薄く開いた台所の小窓からいい匂いが漂ってくるのに項垂れる。
(どうして作るんだ。この時間、いつもだったらゴロゴロしてるくせに・・・)
「早く入れば?」
がらっと開いた小窓に飛び上がった。
窓の向こうのカカシさんは思いのほか穏やかな顔をしている。
それに勇気を得て玄関を開けた。
だけどカカシさんの穏やかさは食事が終わるまでだった。
前に座ったカカシさんが徐に話を切り出した。
「行って来た?」
どこに、なんて言わなくても分かる。
歯医者だ、歯医者。
緊張しながら口を開いた。
「はい、行ってきました」
嘘じゃない。行くのは行った。
「でも、混んでたんで今日は帰ってきました」
それもホントだ。
外から見たらたくさんの人が待っていた。
別に泣き叫ぶ子供の声が聞こえたから帰ってきた訳じゃない。
決して。
言い訳は立った。
ほっと気を抜いてお茶を啜っていると、空気が一瞬にして張り詰めた。
カカシさんは相変わらず穏やかな顔してたけど。
怖い。
目が笑ってない。
「ふーん、予約は?」
「え?」
「予約はいつにしたの?入れてきたんデショ?」
「よ・・やくは・・まだ・・・」
「どうして?」
「・・どうしてって・・・」
どうしてって言われても・・・・。
「行く気あるの?」
詰問するみたいに聞かれた。
なんでそんな風に言われなくちゃいけないんだ。
ぐずぐずしてる俺が悪いと分かっていても面白くない。
「ねぇ?」
「・・・・・・・」
俺だって大人なんだからそんなの自分で決めて行くよ。
「ねぇ!」
「そんなに言われなくてもちゃんと時間が出来たら行きます!」
カッとなって大声が出た。
(やばっ)
言い過ぎた。
すっと表情の消したカカシさんに冷や汗が流れる。
(心配して言ってくれてるのに。)
「ご、ごめ――・・・」
あたふたと取り繕う言葉を言うより先に、カカシさんが顔に笑みを貼り付けた。
「あっそ。じゃあ虫歯が治るまでイルカ先生にはキスしないでおこ」
(なんだよ、それ。なんでそうなるんだよ)
「いいですよ。別に」
訳が分からないながらも、売り言葉に買い言葉。
むっとしてるだろうカカシさんの顔が見れなくて風呂場に逃げた。
(なんであんなに意地悪なんだ。ヒトをばい菌みたいに・・)
でも、実際虫歯があるから何も言い返せない。
カカシさんは何にも知らないからあんなこと言えるんだ。
歯医者には嫌な思い出がある。
幼い頃、奥歯に大きな虫歯が出来て抜いたことがある。
歯茎をぐぐっと突き刺すようにして打たれた麻酔の針が痛くて、おお泣きしたら、先生にすっごい怒られた。
それも怖かったが、その後に続くバキバキと歯が折れる音。
麻酔のおかげで痛みはなかったが、恐ろしかった。
おまけにその隣の歯も虫歯でこれを削る時の歯の下の神経の浮くような痛み。
まさに拷問。
忍が簡単に歯を触らせるもんじゃない。
『ちゅぃぃぃぃぃん』という音を想像すると今でもあの時の恐怖が蘇る。
ぶるっ!
あの音が頭の中で響いて寒気がした。
中忍になって虫歯が出来た時病院は変えたが、すべてが永久歯に生え変わってから虫歯になったのはその一度きりだ。
以来、ちゃんと歯は磨いてきたのに。
(なんで虫歯になるんだよ・・・。)
湯船の中に顔半分まで浸かる。
(――怖い。)
大人になって、アレが我慢出来ないほどの傷みじゃないと理解しているが・・・。
(・・・明日はちゃんと行こう。)
無表情なカカシさんの顔が思い浮かんで、決意する。
(・・・呆れられただろうか。『あっそ』って・・・。)
あんな風に冷たく笑うカカシさんを初めて見た。
突き放すような物言いも。
(・・・・嫌われたかな・・・。あんな風に言い返すつもりなかったのにな。俺、きたないって思われてるのかな・・・)
ぐすっ。
目から落ちた水がお湯に溶けた。