←text top緋に染まる 9
やわらかな海に包まれているようだった。体の下は床を感じさせないほどふかふかで、手足を伸ばすと布団の中を泳いでいるようだった。ぐしぐし顔を擦り付けてから瞼を開く。しばらくすると暗闇の中、布団の緋色が目に馴染んできた。顔を上げれば外はまだ夜で、窓の格子の向こうに外の明かりが見える。まだ夜が深いのか唄や囃子の音は聞こえてこなかった。
あり得ないほどの全身のだるく、関節も痛い。ゆっくり体を起こすと布団の上に座った。肌寒さを感じて起きた拍子に滑り落ちた着物を肩へと引き上げる。自分が立てた音しかしない静かな部屋で、分かっていながら後ろを振り返った。
大きな緋色の布団の中にどこにもあの人の気配がない。平らに広がった布団を見て、ため息すら出なかった。
(・・・好きって言ったのに・・)
なにも本気で信じた訳じゃない。甘い睦言を言ったりするのは相手をその気にさせるための閨房術だってちゃんと分かっている。ちゃんと。ちゃんと――・・。
「起きたんだ」
その声はあまりにも突然で、気配も無く背後の襖が開いたから体が大きく跳ねた。振り返ればあの人が盆を手に立っている。中に入って、すっと後ろ手に襖を閉めると布団の脇に盆を置いて目の前にしゃがんだ。
「どうしたの?体、痛い?」
心配そうに顔を覗き込まれ、ひんやりした手が頬に触れると俯いて頭を横に振った。嬉しさが込み上げて頬が緩みそうになるのを見られたくなかった。
「ホントに?」
「・・・お尻が痛い・・」
これ以上深く探られないように嘘を吐く。いや、そこが痛いのは嘘じゃないけど、もっと痛くなったところを隠したかった。
「ふふっ、そりゃあそうだよ。初めてなんだから。あとで薬塗ってあげるね」
「い、いいです・・っ、そんなところ・・」
「そんなところって・・?」
からかう様に言う男にいらぬ墓穴を掘ったのを知る。
「とにかくいいです!」
「じゃあ、飲み薬あげる。その前にご飯食べよ。お腹空いたデショ」
男が盆を引き寄せると、皿の上に形の良いおにぎりが二つ並んでいた。それを見ると先に腹の虫がぐぅと返事して、羞恥に顔が熱くなった。
「寝てる時も鳴ってたよ」
楽しげに告げられて二の句が告げない。夜のことを思うと緊張して朝から禄に食べていなかったのを思い出し、再び腹の虫にもせがまれて素直に頷いた。
「・・・いただきます」
「どーぞ」
手の上に乗せられたおにぎりに齧り付く。
「「あっ」」
大きく食らいついた途端ぼろっと崩れたおにぎりに二人同時に声を上げた。慌てて両手を受け止めると、その下に男の手が重なる。
(なんでこんなに崩れやすいんだろ・・。ここ料亭なのに・・)
不思議に思った矢先、男の顔がみるみる赤く染まった。
「おにぎりなんてあんまり作ったことなかったから・・、美味しくないかもしれないケド・・」
「いいえ!美味しいです。ありがとうございます」
「・・うん」
ふわっと笑った男に慌てて目を逸らした。心臓がドキドキする。男の気持ちが嬉しくて、でもそれを知られるのは気恥ずかしくて両手に顔を埋めるようにしておにぎりを頬張った。具は何も入ってなかったけど絶妙な塩加減が美味しい。
一つ目を食べきるともう一つ手の上に乗せられて、細められた目に促されて口を開いた。んぐんぐ頬張ってほぼ食べ終わる頃、男が静かに言った。
「ねぇ、さっき言ったこと覚えてる?」
「?」
「オレに『スキ』って言ったの」
「あ・・っ」
思い出してかーっと顔が火照る。
「さっきはムリヤリ言わせちゃったけど考えてくれない?オレのこと・・。本当にスキになっちゃった。傍にいて欲しい」
告白とも言える男の言葉にものすごく緊張して、おにぎりを飲み込もうとした喉が大きな音を立てた。
(どうしよう・・!どうしよう・・!)
ただ頷けばいいのかもしれない。だけど喜びに舞い上がった体は変に緊張して素直に言うことを聞いてくれなかった。
「ダメ?オレのこと、キライ・・?」
黙りこくっていると男の表情が曇る。固まった首筋に力を入れて、僅かに首を横に振っただけでぱっと男の顔が輝いた。
「じゃあ、好き?オレと付き合ってくれる?」
小さく小さく頷く。その瞬間、俺は男の腕の中にいた。
「わあ・・嬉しい・・!嬉しい!」
噛み締めるように言われて激しく照れた。照れたけどたまらなく嬉しい。こんなときは自分も男の背に腕を回せばいいのかもしれないが、米粒の張り付いた手の平に困って両手を空中に彷徨わせた。その分男が強く抱きしめてくれる。蕩けるような幸福感に包まれて男の肩に頬を乗せた。
(いつからだろう・・?いつからこんなにもこの人に惹かれた?)
体だけという条件の元始まった関係がいつの間にか恋にまで発展していた。初めは怖くて仕方なかったこの人が今は愛しくてたまらない。
「・・・・好きです」
呟きほどに小さく言った言葉は男に届いて、男はそうっと体を離すと顔を傾けた。
(あ・・、キスされる・・)
目を閉じると唇が重なる。角度を変えて戻ってくるそれを受け止めていたら、すーっと男の唇が首筋を降りて、ぱっと目を開いた。
「あ、あの!」
鎖骨を啄ばまれ焦りが生じる。男を見ると欲を含めた目で見つめ返されて更に焦った。
「シテもいいよね?もう一回・・」
「あっ、待って・・まっ・・」
「ダメ・・。さっきから着物の隙間から丸見えで・・あんまりエッチな格好してるから反応しちゃって・・」
するっと着物の下を腰から大腿まで撫ぜられて、あっと声を上げた。知らない内に裸を晒していたことに羞恥する。男を押しのけようにも手に付いた米粒が邪魔をした。逃げながらも更に下へと降りていく唇に心臓が高鳴る。
「すごくドキドキしてる・・」
すぐに男にバレて心臓の上を吸い上げられる。
「っ!」
痛みに震えると、男が唇を離した後に赤い痣が浮かび上がった。そこを男が愛しげに啄ばむ。そんな風にされるともう駄目とは言い出せなくて体から力を抜いた。
「・・いいの?」
改めてなんて聞かないで欲しい。ぎゅっと目を閉じて頷くと、ふわっと空気の塊が胸に当たって笑われたのに気づいたけど、男の愛撫が再開してヘンな声を出さないように口を噤んだ。
やわらかな愛撫が降り注ぐ。だけど少しだけ不安になって胸の奥が揺らいだ。
(まだ名前聞いてない・・。)
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