←text top緋に染まる 3
言葉より先に、吹きかけられた男の息の熱さに体が慄いた。びくっと震えた体に男の腕が絡む。
「・・ふーん、カンジ易いんだね」
言われた言葉に羞恥が走った。かっと体が火照り、汗が吹き出る。
俺よりわずかに背が高い男は背後から抱きついて肩に顎を乗せた。いつの間にか浴衣を着ていても隠されていた顔が晒されている。そこに男の本気を感じ取って、背中が冷たくなった。
「ちょっ・・!わっ、ま、まって・・まっ、わーっ」
逃れようとしても一歩も前に進まなかった。腰に回った男の腕は頑丈に絡んで離れない。まるで鉄のように固まった腕は両足を浮かせて体重を掛けてもびくともせず、逆に体を運ばれそうになって慌てて足を下ろすと踏ん張った。その間にも男の息が首筋を這う。その生暖かさにパニックになり、思わず叫んだ。
「待って!まっ・・、いやだ・・やめろ!!」
その瞬間、あんなに固かった腕が緩んで畳の上に転がった。四つん這いになって部屋の隅まで逃げる。行き場を失って振り返ると、男が呆れた顔してこっちを見ていた。
「なにそれ・・。オレ、そんなこと言われたの初めてだよ・・」
「すいません・・すいません・・!俺には無理です・・・」
処罰ならいくらでも受ける。そう決心して震える足に力を入れると立ち上がった。恐る恐る前に進み、男の横を通り過ぎる。何かされるかと思ったが、意に反して男は何もしてこなかった。閉じていた襖に手を掛ける。ここを開けて外に出れば開放される、そう思ったとき、
「ふーん、帰るんだ。アンタ、これの意味ちゃんとわかってる?まさか報酬とか思ってない?」
背中にぶつけられた男の声に動きを止めた。
「え・・」
思ってる。それ以外に何の意味があるってんだ。
そんな心うちが空気に漏れたのか男が呆れた様なため息を吐いた。
「違うデショ?里がそんな客引きみたいな真似するわけないじゃない。これは人を忘れるなって意味。たくさん人を殺しても人の温かさを忘れるなってコト。ま、本来なら自分の女抱けばいいんだけどね〜、オレ、一人身だから・・。だから里がくれるんデショ」
コレと、男の指先が札を弾く。
言われたことに頭の中が真っ白になった。確かにそうだ。里が意味もなくそんなことする筈が無い。だとしたら俺が望まれているのは快楽の提供じゃない。人肌の温かさ、人の温かさ、――ひいてはそれは里を想う心だ。それがあるから皆、どんなことがあっても里に帰ろうとする。里が愛しいから。里を愛しく想う理由があるから。
(駄目だ、断れない)
そうしてはいけないと頭の中が告げる。里にいる忍びとして里の意思を尊重しないわけにはいかない。そうでなくても、里への想いを摘み取るようなことをしてはいけない。
(・・でもそれは・・・・・)
俺じゃなくたって良い様な気がした。迷う心が往生際を悪くする。
「あの、明日じゃだめですか・・?明日ならちゃんと手配して・・」
「明日はもう任務があるの。・・・アンタ、さっきの様子じゃあ、それなりに覚悟決めて来たんじゃないの?それとも放棄して帰る?・・・・・別にいーよ、それでも・・」
急に投げやりになり始めた口調に追い詰められた。振り返れば、彼は怒っているというより寂しそうだった。
(無理だ・・)
拒めない。彼を、――彼の心を拒むことが出来ない。そっぽ向いて黙り込む彼は置いてけぼりにされた子供みたいに儚げで、俺には放り出すことが出来なかった。それにこうなったのも男が悪いんじゃない。俺がヘマしなければゃんと相手がいたのに・・。
(・・俺しかいないんだ)
言い聞かせて、頷いた。
「わかりました、俺でよろしければ・・」
俺が頷くと男は上機嫌になった。俺が開けようとしていた襖を開けて、店の者を呼ぶと料理を運ばせた。向かいの座敷からチントンシャンと流れてくる。その音を背景に、膳を並べてご飯を食べた。
「いっぱい食べてね」
「は、はい・・」
「もっと飲む?」
「いえ、俺は・・」
「そう・・、じゃあ、ついでくれる?」
差し出された盃に酒を満たすと男はくいっと軽く煽った。ふぅっと満足げに酒精を吐くと焼き魚の身を解す。それを口に頬張ると、見ていた俺に気づいてにっこり笑った。
「食べないの?おいしーよ?」
「はい、いただきます」
本音を言うと食欲なんてまったく無い。これから起こる事の恐ろしさが俺から食欲を奪った。それでも男が見ているから魚を突付く。ぐさぐさやっていると隣から忍び笑いが聞こえた。
「へたくそだなー、いい?」
「あ・・」
返事を待たずに男の箸が伸びる。綺麗な箸使いで俺の魚を解すと身を取って口元に運んだ。
「はい」
「えっ!い、いいです・・っ」
急にドキドキして赤くなった。そんなこと誰にもして貰ったことが無い。恥ずかしくて腰を引こうとすると男が手を掴んだ。
「いいじゃない。ほら、口開けて」
無邪気な顔で促されると無碍には出来ない。恐々口を開けると魚が口の中に入った。
「ね、おいしーデショ」
ニコニコする男に頷く。すると男がほっとしたように息を吐いた。
気遣われていた。そんな必要ないのに。
(悪い人じゃないんだ・・)
当たり前だった。俺が勘違いさえしなければこんな事にならなかったのだから。男には返って迷惑を掛けてしまった。本当ならこんなごつごつした男じゃ無くて柔らかい女を抱きたかっただろうに。
それでもこの人は俺を気遣ってくれる。こんなに優しければ女の人にモテただろうに、彼女がいないなんて不思議だった。
「あ、これも美味しいよ」
これもと男が指した白子を口に運ぶ。とろりと舌の上で溶けた白子の味は濃厚で確かに美味しかった。
「ホントですね」
もう一口口に運ぶと男が微笑む。嬉しそうな笑顔だった。
(ほんと、悪い人じゃない・・・)
少し気が緩んで男に微笑み返すと、
「オレのもあとでそんな風に頬張ってね」
「・・・・・・・」
楽しげに告げられた言葉の意味と白子が何であったかが遅れて脳に届いて、瞬く間に味が分からなくなった。
部屋には内風呂が付いていて、食事の後、男が先に入った。静かな部屋に一人残されたが、もう逃げようとは思わなかった。それは俺を信じた男を裏切ることになる。じっと窓辺に座っていると男が戻ってきて、俺を見て目を細めた。さっきまで浴衣の下に来ていたアンダーは脱いでいて、襟元からは男の肌が覗いる。
「お風呂入っておいで。着替えは着物が風呂場にあるから」
俯いたまま頷くと風呂に入った。出来るだけこれから先のことは考えないようにして湯船に浸かる。
(・・すぐに忘れてしまおう)
そう思うことで自分を納得させた。
全身を洗って風呂から上がると着物を探した。だが、
(・・・ないよ?)
男と同じ着物を探したが置いてない。いや、無いことは無い。真っ赤な着物が一着だけあった。
(コレを着ろってことかな・・)
どう見ても女物の薄絹に、羞恥と怒りが湧いてきた。よく見ると俺の服が無くなっている。
(こんなの着たら不気味さが増すだろうが・・!)
怒鳴りたい衝動に駆られたが、とにかく服を着ないことには始まらない。さっと羽織ると帯を巻いた。だがこの帯も長すぎて巻きにくい。とにかくぐるぐる巻きにして端を結ぶと勢い良く扉を開けた。
「俺の服はどこやったんです!それにこの着物は・・・っ」
驚いたように目を見開いた男が、やがてくつくつと笑い出す。
「洗濯して貰ってるよ。汗掻いた服また着るの嫌デショ?朝になったら持って来てくれるから。着物はほら、最初女の人が来ると思ってたから、それしか用意してもらってなくて・・、ゴメンネ」
事も無げに言う男に毒気が抜かれた。嫌がらせかと思えば、そう言う理由か。それよりも朝までいなくてはいけないという事実に泣きそうになる。コトが終わればすぐに家に帰りたかったのに・・。
「こっちおいで」
手招きされて固まった。いよいよ危惧していたことが現実になろうとしている。
「あ、」
急に喉が渇いて空唾を飲んだ。男が近づいて来ても身動き取れない。
「髪も洗ったんだね」
可笑しげにいう男に羞恥心が湧いた。こういう時は洗ったりしないものなんだろうか?
「拭いてあげる」
「いえ、自分で・・」
「いーから、やらせて」
男は小さなタオルを持ってくると頭に被せた。ごしごし拭く手つきは柔らかく気持ちよかったが、すぐ近くにある男の肌から熱が伝ってきそうで落ち着かなくなった。心臓が痛いほどドキドキする。
「もういいです」
動揺を気取られたくなくて、男の手から逃れた。
(俺だって忍びだ。このぐらいの任務、こなせる!)
気持ちを奮い立たせて男に向き合う。
「俺は、どうしたらいいですか?」
気丈に言い切れば、男が目を細めた。
「疲れてるから本当は舐めて勃たせて勝手に突っ込んでイかせてもらおうって思ってたんだけど・・・、アンタじゃそういう訳に行かないだろうから協力するよ」
この瞬間、本気で昨日の自分を恨みたくなるほど後悔した。
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