←text top漆黒に染まる 8
アパートの階段を降りて振り返ってみたけど、イルカが追い掛けてくる様子はなかった。
(なんか、オレばっかりスキみたい…)
ズボンのポケットに両手を突っ込むと、夜道を歩き出した。
ちょっと怒らせてみようと思っただけだ。怒らせて、本音を語らせようと思った。イルカが何も言わないから。
影の記憶が戻って来たのは、いつもの場所でイルカを待っている時だった。
昼間、受付所で誘ってきた男の相手を影にさせた。受付を終わることを見計らって再度足を運ぶと、待ち構えていた男が居酒屋に誘ってきた。酒が入った方が口が滑るだろうと了承すると、男は浮かれた様子で影を先導した。
「で、話したい事ってなに?」
席に着いてすぐに聞くと、内緒話でもするように顔を近づけてきた。その言動がいちいちうっとうしい。先に運ばれてきた酒を注いでやると、男は嬉しそうに盃を干した。
「そのことなんですけど、……イルカって、前からはたけ上忍のこと話してたんですよ」
「えっ、本当?」
一瞬浮かれて聞き返せば、男は続けてこう言った。
「ええ。はたけ上忍が優しいのを利用して、俺ははたけ上忍と付き合ってるんだ、とかなんとか、あること無いこと言いふらして。おれは迷惑が掛かるから止めとけって言ったんですけど、イルカが聞かなくて……」
「ふぅん。そんなこと言ったんだ」
ガッカリした。イルカがオレと付き合ってるなんて、そんなこと言うはず無い。笹の話とも大きく食い違っていた。どちらを信じるかと言えば、笹だ。彼はイルカと雰囲気が似ていた。
「そうなんです。イルカのヤツ調子に乗って……」
「違う違う。イルカの方じゃなくて、アンタ」
「おれですか? あっ、はい。ちゃんとイルカの事諫めておきました。おれはイルカの先輩だし、後輩の指導はちゃんとしないといけませんから」
「じゃあさぁ、考えたことない? 本当にオレとイルカが付き合ってたら、どうなるんだろうって」
「え…?」
「オレの恋人がさぁ、傷付く様なこと言って、無事でいられると思った?」
「え、でも、はたけ上忍とイルカって付き合ってないって、皆が……」
「みんなって、誰?」
「ヒッ!」
男が顔面蒼白になって、がたがた震えだした。賑やかな喧噪の中で、イルカの先輩だと言うこの男だけが孤立する。死に直面して、助けを求める声も出せないでいた。
(ああ、イヤだなぁ。こんなトコ、イルカに見られたら嫌われちゃう)
影は生意気にもそんなことを考えていた。
「言いなよ。隠しても為にならないよ? 他にもイルカのこと悪く言ったり、ちょっかい出したりしてるのって、いるの?」
「ひっ…、あぐっ…」
放っておくと泡でも吹きそうだったから、殺気を少し緩めてやった。
「はっ、話します! だから殺さないでくださいっ!」
唾を飛ばしながら話す男の口から出てくる名前を暗記した。
「それで全部? 忘れてるの居ない?」
「い、いません! おれが知る限り全部です!」
「そ。アリガトね」
イスを引いて立ち上がると、男があからさまにホッとする顔をした。
「あ、オレねぇ、もう分かってると思うけど、アンタが思うほど優しくないんだーよ。お酒、美味しかった?」
「え…?」
「味、しなかったでしょう? 無味無臭。遅効性なんだよ。胃に入るとねぇ――」
「うぐぅっ」
言い切る前に、男が口を押さえて店の奥に走った。伝票を置いたまま、店の外に出た。
(ちゃんと間に合ったかな――)
そこで影の意識がぱちんと弾けた。
(ただの酒だっつーの。ばぁーか)
影の不快感を共有したのは一瞬で、すぐに男のことを消し去ると、イルカを想った。
イルカの塞ぎ込む原因が分かった。イルカはオレとの付き合いを非難されて落ち込んでいたのだ。
(だったら、どうしてオレに言わないのよ)
一人で悩んでいたイルカに腹が立った。
そんなにオレは頼りにならないのか。あまりの信頼の薄さに苛立った。
(所詮、体から始まった関係はこんなものか)
思わず悪態を吐くと、仕事を終えたイルカが走ってきた。いつもは可愛いと思えるその姿を見ても、隠し事を知っては、怒鳴らないでいるのが精一杯だった。
冷たくすると哀しい顔をするイルカに、ほんの少し溜飲を下ろしながらも、すべてを語らせてやろうと思った。
我慢だって、もうするもんか。
――そして、結果は現在に至る。
一人夜道を歩きながら溜め息を吐いた。本音が聞きたいと思ったが、よもや女の所に行けと言われるとは。それが恋人に言う台詞か。
(…もうダメなのかぁ…、オレ達)
いくらスキでもイルカがあの調子では、関係を続けていくのは難しいだろう。
「あーぁ」
溜め息を吐くと、ずんずんと歩いていた足を止めた。
(どこへ行こう…)
考えても行く所がない。帰ろうにも、オレの家はイルカの部屋だ。暗部寮を引き払った時、上忍寮も断った。
(イルカだって、そのこと知ってるくせに…!)
追い掛けてきてくれないイルカに地団駄を踏みたくなった。帰りたいが、頼まれてもないのに帰るのは癪だ。
「あぁ、もうっ!」
悔しいから本当に女の所にでも行ってやろうかと考えて、あの部屋を思い出した。いつも女を呼んでいた部屋、――イルカと初めて出会った部屋だ。
あの時、イルカは可愛かった。オレに無理を突き付けられて、慌てふためいていた。そのくせ淫らで、一生懸命で、一夜にして絆されてしまった。
(泣いてたイルカ可愛かったなぁ…)
声を押し殺して。自分の不安をひた隠して――。
「……」
今頃イルカは泣いてないだろうか?
面と向かって、オレの前では泣かないイルカだ。今回のことで、イルカが泣いてないと誰が言えるだろう。
(まさか、隠れて泣いてた?)
さっきだってオレが家を出て、イルカが平気でいられるとは思えなかった。
(オレはバカだ)
顔をぐしゃぐしゃにして泣いているイルカが瞼に浮かんで、踵と返すと部屋へと走った。
「イルカ!」
飛び込むように部屋に入ると、イルカを探した。
「イルカ、…イルカ?」
部屋のどこにもイルカが居ない。
(どこ行った…?)
明かりは点いたままで、几帳面なイルカが、そんな状態で出掛けるなんて考えられなかった。
(まさか、事件に巻き込まれたなんてことないよね?)
外に出るとアパートの周辺を探した。オレが出て行ってから、まだそんな経っていない。遠くに行ける筈ないのに、イルカは見つからなかった。
(イルカ! イルカ!)
指を噛みきると、忍犬達を呼び出した。
「何じゃ、カカシ。こんな時間に呼び出して。今日は任務ないんじゃなかったのか?」
「いいからイルカを探して。イルカが居ないの! 早く探してきて!見つかったらすぐにオレを呼んでよ。散!!」
大きな声で号令を掛けると、やれやれと忍犬達が走り出した。ヤル気のない様子が気に掛かったが、今はアイツ等に頼むしかない。
しばらく待っていると、「わぉーん」と発見の合図がした。急いで駆けつけると、パックンがオレを待っていた。
「……あの中じゃ」
「は?」
何か間違いじゃないかと、パックンを見つめた。
「イルカの匂いは、あの中に消えておる」
――ブチッ。
大きく血管の切れる音がした。目の前には、遊郭の大門がある。その向こうで揺れる赤い提灯に、目の前が真っ赤に染まった。
「イルカが浮気してる…」
「……まだそうと決まった訳じゃない」
「行くよ。パックン」
「コラ、話を聞かんか」
首根っこ捕まえて、引き摺り戻してやる。
大股で大門を潜ると、パックンを先導させた。
(絶対に別れないよ!!)
さっきはもう無理かもなんて思ったけど、目の前で失いそうになったら、そんな悠長なことを言ってられなかった。イルカが女の肌に触れるかもと思うと、腑が煮えくりかえった。
(目の前で女を引き裂いてやる!)
そして、二度と浮気なんて考えないようにしてやる!
遊郭の中を、竜巻を起こさんばかりに駆け抜け、ようやくイルカを見つけたのは、オレ達が出会った料亭の店先だった。
イルカがなにやら揉めている。人相の悪い男達に両腕を掴まれ、店から引き離されようとしていた。
「離して下さい!」
イルカの悲痛な声にカッとした。
「中に、カカシさんが…! はたけカカシって人がいるでしょう?」
(え?)
と、思った時にはイルカを羽交い締めにしていた男達を殴り飛ばした痕だった。
「カ、カカシさん!?」
両腕が自由になると、イルカはオレに縋り付いた。
「嫌です! 女の人なんて抱かないで下さい!」
わぁわぁ泣きながら、オレを店から遠ざけようと体を押してくる。
(オレを、止めに来てくれたの?)
ぱぁっと気分が晴れて愉快になった。泣きじゃくるイルカが可愛くて、可愛くてぎゅっと抱き締めた。
(やっぱりイルカはオレが居ないとダメなんだーね!)
トロトロと頬を蕩けさせていると、
「なんだぁ、お前。俺達にこんなことをして、ただで済むと思うなよ」
オレが殴り飛ばした男達が、実力も弁えずに喧嘩を売ってくる。
「ナニ? 喧嘩したいの?」
(今のオレは強いよ。ま、もともと雑魚なんて相手じゃないけーどね!)
イルカに触れた戒めに、両腕を叩き追ってやろうと思っていると、店の中から主人が飛び出してきた。
「はたけ様、申し訳ございません! 店の者達が失礼をいたしました。私どもにもお客様への守秘義務があったのです。どうぞご理解を…」
低頭して絡んでいた男達を追い払った。主の様子に男達は目を白黒させていたが、これ以上騒ぎを大きくするのは拙いと悟ったらしく姿を消した。
「分かってるよ。それより、急で悪いんだけど、部屋貸してくれる?」
腕の中ではまだイルカがぐずぐず鼻を鳴らしている。こんな可愛いイルカを誰かに見せるワケにはいかなかった。
「もちろんでございます」
案内されたのは最上級の部屋、――イルカと出会った部屋だった。
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