浮空の楽園 22
終章
チチチと小鳥の囀りが聞こえた。風がそよいで、カーテンを大きく捲し上げた。
窓の向こうに緑が見える。
(どこだ、ここ…)
知らない部屋に寝かされていた。
清潔な布団と清潔なパジャマ。床は塵一つなく磨き上げられていた。
床に自分の顔が映る。良く見ようと顔を近づけようとして、遠くから話し声が聞こえてきた。
だんだんこっちに近づいて来る。
「その話は分かったってばよ。オレからも言っておくから」
(…てばよ?)
随分変わった話し方をする人だと思った。と、前置きもなくドアが開く。初老の男性が入ってきて、こっちを見た。
その顔が子供みたいに、ぱぁっと輝く。
「やっと起きた!」
「やっと…?」
男性の言い分に首を傾げた。
「そうだってばよ。随分長く寝てたんだぜ」
「そう…ですか。…長くって、どれくらい?」
「うーーんと長くだよ。どこか痛いところはない?」
「…ない、みたいです」
体を動かしてから言うと、ニカッと笑った。人なつっこい笑顔だった。青い眼は明るく澄んで、元は金色だっただろう髪は白い物が混じっても綺麗だった。人柄に太陽を感じた。
さっきの質問に答えて貰えなかったのが気になるが、それよりまず、
「アナタは誰ですか?」
聞いてから気付いた。
(…俺も誰だろう?)
自分の事がまるで思い出せない。
「オレはナルトだってばよ」
「ナルト…さん。あの、私は誰なんでしょう? どうしてここにいるんですか?」
聞きながら自分でも変な質問だと思った。自分の事を他人に聞くなんて。
相手もそう思ったのか、僅かに落胆した顔をした。それはすぐに隠れてしまったが、なんだか申し訳無い気分になる。
「ここは療養施設だよ。悪いが名前は知らない。倒れているところを病院に収容されたんだって。コールドスリープって知ってる? 当時治せない病気だったから、治せる時代が来るまで冷凍されてたんだ。それで治せる時代が来たから解凍して、治療して、目が醒めたんだってばよ」
「…病気で倒れてたって事でしょうか?」
「明確な資料が残ってないんだ。里が一時壊滅状態になって、その時に失われてしまった。でも心配しなくても大丈夫だってばよ! オレがちゃんと独り立ち出来るまで世話すっから」
「そうですか…。ありがとうございます」
大丈夫と言われると安心出来た。つまりこの人は、俺の世話係と言うことで良いんだろうか。
「…あの、私には家族はいなかったんでしょうか? いたら、心配してると思うのですが」
「う〜ん。居ても死んでるんじゃないかな。五十年近く寝てたみたいだから」
「ご、五十年!?」
余りの長さに驚愕した。だったら俺は幾つなんだ? 目の前の人より、俺の方が年上かもしれない。
「イル…まあ、落ち着くってばよ。目が醒めたばっかりだし、おいおい思い出していけば良いって」
(いる…?)
なにか言い掛けた気がしたけど、ナルトさんは言い直すことなく、パンッと手を叩いた。
「さ! 目が醒めたんだし、体にも異常がないなら退院するってばよ! アンタには手伝って欲しいこともあるしな」
「手伝い?」
「そ。オレの仕事を手伝って欲しいんだ」
いきなりの話に吃驚した。
「…私に出来るでしょうか?」
「大丈夫だって! じゃ、コレに着替えて。外で待ってっから」
服とサンダルを置いて、ナルトさんは部屋を出て行った。
服を脱ぎ、着替える際に自分の体を見てみた。病気を治したと言っていたが、体にはそれらしい傷跡はなかった。体に残るのは、どれも古傷ばかりだ。
寝ている間に医療が発達して、傷を残さなくても治療出来る様になったのだろうか。
(それとも別の病気か?)
分からない事だらけだ。どうして記憶が無いのかも不思議だった。
だけど、『おいおい』と言われたのを思い出して、焦らないでいようと思った。一度にたくさん聞かれても迷惑だろう。
服を着て部屋を出た。
「お待たせしました」
ベンチに座って待っていたナルトさんが、ニッと笑って立ち上がり、先を歩いた。
ナルトさんが退院手続きをしている間、窓ガラスに自分の顔を映してみた。
まだ若かった。たぶん二十代前半ぐらいじゃないだろうか。鼻筋を横切る大きな傷跡があった。
(うわぁ…)
派手な傷跡に思わず手をやるが痛みは無く、これも古傷らしかった。
「気にすることない。ここは忍の里だし、顔の傷跡なんて珍しくもないってばよ」
いつの間にか手続きを済ませたナルトさんが後に立っていた。
「そうなんですか? …俺は忍だったんでしょうか?」
「ま、まあな!」
「そうだったんだ…。あ、治療費!」
「心配しないでいーよ。保険で賄われっから」
「そうなんですか?」
「ああ。あとコレ。病院に運ばれたときに身に着けてたものだって」
紙袋を渡されて中を覗くと、服が入っていた。あと定期入れも。身元を証明する物が入って無いかと思ったが、中には色褪せた写真が入っているだけだった。
(空…?)
取り出して見れば、それは雑誌の切り抜きみたいだった。空に浮かぶ雲の写真に見えたが、良く見ると真ん中より下の辺りから上下対称になっていた。
「なんだろ…?」
なんの意味があるのかと首を傾げると、ナルトさんが横から覗き込んだ。
「それ、潮の里じゃないかな」
「潮の里?」
「うん。塩を作ってる小さな里で、景色が綺麗だって聞いたことがある。ほら、ココ。水面に空が映ってるってばよ」
「なるほど…」
水面だったのかと感心して、写真を元に戻し袋に入れた。記憶には無いが、これだけ持っていたなんて大切な物だったのかもしれない。
「行こうか」
「はい」
ナルトさんに続いて外に出た。明るい日差しに目を細める。風が暖かくて、季節は春を過ぎた頃だと思った。
(俺…)
そういった記憶は残っている様だった。それに、自分の一人称が『俺』だった。記憶を無くす前はそう言っていたのか。
忘れているのは自分に関する記憶と…、
(人の記憶…?)
周囲に居たであろう人達の事も思い出せなかった。それ以外、…例えば、あれは木だとか、服の着方だとか、入院すればお金が掛かるなんてことも分かっていた。
(これなら案外生活するには困らないかもしれない)
未来に対して楽観的な気持ちが込み上げる。
「どうしたってばよ?」
「いいえ、なんでもないです」
考え事をして遅れ気味になる俺をナルトさんが振り返った。足早に歩いて隣に並ぶ。
しばらくは森の中を歩いていたが、木立を抜けると家が見えて来た。人はまばらで閑散としているように見えたが、通りに出ると圧倒された。
たくさんの人と大きな建物が並んでいた。活気と物が溢れている。
「うわぁ、ここは豊かな里ですね」
「だろ? 忍の里の中でも一番裕福だって言われてるってばよ!」
ナルトさんが嬉しそうに答えた。誉められた子供の様に誇らしげだ。里への愛情を感じた。
(きっと、良い里なんだな)
そんな気がして、胸が温かくなった。
ナルトさんは商店街を歩いた。気になるのは、ナルトさんを見かけた人が挨拶していくことだ。
「あの…、アナタは偉い人なんですか?」
「いいや。里の仕事をしてたから、みんながオレを知ってるだけだってばよ」
「そうですか…。これからどこへ行くんですか?」
「俺の家。…その前に寄りたい所があるんだけど良い?」
「はい、どうぞ」
俺に行くところは無いから異存はない。
「ちょっと待ってて」
ナルトさんが花屋さんに入っていった。寄りたい所とはここだろうか?
出てきたナルトさんは花束を三つ持っていた。そしてまた歩き出す。
着いたのは大きな石碑のある所だった。その後に、小さな石碑がたくさん並んでいる。
墓だった。
ナルトさんは同じ形の石碑がたくさん並ぶ中、迷わず進んで足を止めた。
「オレの師匠の墓だってばよ。三忍の一人で、すっげー強かったんだぜ」
花束を一つ置いて石に触れると、別の場所へ移動した。
次に足を止めたのも似た石碑の前で、枯れかけた花が置いてあった。それを脇に置いて新しい花を置き、もう一つをその隣に置いた。
何故かその墓だけ隣の墓とくっついていた。
「この二人はオレの恩師。すっげー良くしてくれて、大好きだったってばよ。もう一人はすっげー我が儘で、墓はイルカ先生の隣じゃないと嫌だってごねたってばよ。大人としてどうなんだ…忍としては一流だったけど…。…まっ、良い先生だったけどな!」
元気良く話していたナルトさんの声が濡れた。亡くなったばかりだろうか。手を合わせるナルトさんの影から石碑を見た。
『はたけカカシ』と『海野イルカ』。
知らない人のお墓だった。
話すことが沢山あるのか、ナルトさんは長く手を合わせていた。傍らで、話し終わるのをじっと待つ。
「じゃあな、先生。…いこっか」
「はい」
振り向いたナルトさんに返事した。
「…どうしたんだってばよ?」
怪訝な顔で問われて首を傾げると、頬に涙が転げ落ちた。
「あれ?」
何故か泣いていた。哀しくないのに涙が溢れ出す。
「なんでもないです」
ごしごし目元を拭って涙を拭いた。
「すみません。行きましょうか」
そのうち止まるだろうと歩き出した足下を、さっと影が過ぎった。
見上げれば、一羽の鳥が大きな翼を広げ、空を羽ばたいていた。翼に風を孕み、空高く舞い上がる。
「まぶし…」
見上げる空は青く澄んで眩しかった。白い雲から光が溢れ、キラキラと光って見えた。
「行くってばよ!」
「はい!」
顔を下ろした時には涙は止まっていた。
青空の下、新たな一歩足を踏み出した。
← end