はなつ光 1





 目を閉じて布団の中でまどろんでいるとじゅっと油の跳ねる音がした。次いで鼻腔を擽る卵の匂いに頬を緩める。チンとレンジの音がして、ざりざりとパンにバターを塗る音がすれば、今日の朝食が目玉焼きトーストだと窺い知れた。コーヒーの香りに更に布団に潜り込む。
「カカシさん、起きてください」
 隣の部屋から声を掛けられるのに聞こえなかったフリをする。
「カカシさん!」
 強めに呼ばれて幸せを噛み締めた。もうすぐイルカ先生が起こしに来てくれる。
(髪撫ぜながら起こしてくれないかなー)
 甘い夢を見ながら近づいてくるイルカ先生の足音に耳を澄ました次の瞬間、
「もう!いい加減起きろ!!」
「うわっ!」
 敷布団を持ち上げられ、ごろっと転がってベッドの足に額をぶつけた。
「いっ!〜っ!〜っ」
 涙目になって見上げると、イルカ先生が仁王立ちしたまま言い放った。
「さっさと起きないからです」
「・・・ゴメンなさい」
 ごしごし打った額を擦りながら起き上がると、ぽろりと瞳から涙が落ちた。



 イルカ先生の朝は忙しい。二人分の朝食の用意と二人分の洗濯をして、オレが寝ていた布団を畳んでオレの世話までしなければならない。
 もぐもぐイルカ先生が用意してくれた目玉焼きトーストを食べながらその動きを追いかけていると、通り過ぎようとしていたイルカ先生がはっとした顔で隣にしゃがんだ。
「カカシさん!垂れてる!」
 ちょうどその時、オレは半熟の黄身に齧り付いたところだった。
「あ」
 口の端からトロリと流れる感触に手を上げかけると、先にイルカ先生の指が伸びてそれを掬った。ぐっと顎を拭って唇に触れる。その指がイルカ先生の口に含まれるのをじっと見ていた。
 凄く心臓がどきどきする。じんじんと頬が熱くなるのを感じながらイルカ先生の袖を引いた。
「イルカ先生もご飯食べましょうよ。冷めちゃうよ?」
 上目遣いに強請ると「そうですね」とやっと腰を下ろした。
 目の前で朝ごはんを食べるイルカ先生を見るのはとても幸せなことだった。たとえ寝床は別々でも、そうしてるとイルカ先生がオレの恋人だと思えたから。そう思えるためなら卵の黄身だって垂らす。
 トーストを食べるイルカ先生をドキドキしながら見ていた。もし、イルカ先生が黄身を零したら、オレもさっきみたいにしてとってあげよう。
 だけどイルカ先生は黄身に差し掛かると一口で食べてしまい零したりなんかしなかった。






「イルカ先生、手を繋いでもいーい?」
 仲良く並んで出勤しながら人通りの無いのを確認して声を掛けた。
「駄目です。こんな往来で・・」
 カバンの紐をぎゅっと両手で握ったままイルカ先生が言う。
「でも誰もいないよ」
「誰もいなくなって外では嫌です」
「家の中ならいーの?」
 そこでイルカ先生は黙り込んだ。唇の端をぎゅっと結んで俯く。
 それが何故なのか分からない。
 オレの零したものは平気で口にするくせに、手を繋ぐとか一緒の布団で寝るとか、そういった接触は言葉ではなく態度で拒まれた。
 いっそのこと駄目って言ってくれたら無理矢理にだってそうするのに。
(オレたち恋人になったんじゃなかったの?)
 一ヶ月前のあの日に。イルカ先生に何度も口吻けた朝に、胸に飛び込んでくれた夕方に。
 忘れてしまったオレを許して恋人になったんじゃなかったの?
 あれから唇どころか手にすら触れられない日々に、イルカ先生の肩を揺すって何度そう聞きたくなったか分からない。
 だけどそんなことするほどバカじゃない。
 そんなことして、「あれはそんなつもりじゃなかった」なんて言われたら目も当てられない。
 じっとイルカ先生の態度がやわらぐのを待つしかなかった。







 器に盛られて、ほくほくと湯気を上げるカボチャに手を伸ばした。途端にぺしっと手を叩かれ、怖い顔したイルカ先生がめっと睨んだ。イルカ先生のそんな表情が好きだ。わだかまりがなくてイルカ先生を近くに感じれるから。
「つまみ食いしてないで運んでください」
「はぁーい」
 出来上がったおかずを卓袱台に運んで、頃合を見計らってご飯をよそう。家事が一切出来なかったオレにしては上出来だ。味噌汁を運んできたイルカ先生が座って、二人して手を合わせた。
「いただきます」
「いただきまーす」
 さっき食べ損ねたカボチャの煮物を口に運ぶ。
「おいし、イルカ先生の作るご飯はいつもおいしーね」
 口いっぱいに頬張ってもきゅもきゅ食べるとイルカ先生がはにかんだ。
「たくさん作ったからおかわり出来ますよ」
「うん」
 イルカ先生の喜ぶ顔が見たくてたくさん食べた。



「ね、イルカ先生、初めて会ったときのオレってどんな感じでした?」
 食後、テレビを見ながらお茶を飲んでるときにそれとなく聞いてみる。
「・・どうしてそんなこと聞くんですか」
「だって気になるんだもん・・」
 イルカ先生がこの話題に触れられたくないのは知っている。だけど気になってしかたがない。それはオレの知らない記憶だからというのもあるが、――不思議で仕方なかった。
 このイルカ先生相手にどうやってそういう雰囲気にもっていけたのか。
 一緒に暮らしてこんなに傍にいるのに、どうしてだかそんな雰囲気にならない。それはともすれば友達のようで、恋人同士なら当然するアレコレが出来そうな雰囲気から程遠い。
 だから何かあった筈なんだ。イルカ先生をその気にさせる何かがあの日のオレには。
「普通でしたよ」
「普通って?」
「だから、今とそんなに変わらないっていうか・・」
「っていうか?」
 嘘だと思った。なにかあった筈だ。今と違うところが。
 思い出せるものなら思い出して活用したいが、悲しいかな思い出す気配はまったくない。そんな訳で嫌がられてもイルカ先生に聞くしかなかった。が、突付きすぎたのかイルカ先生の眉間にぎゅっと皺が寄りだす。
「カカシさん、俺、あの日の話はあんまり――」
「あっ、ゴメン、でもあの日のオレってカッコよかった?どのヘンがイルカ先生の好みだった?」
 これだけは教えてと早口で聞くとイルカ先生が呆れた顔でこっちを見た。
「アンタどんだけ自分に夢見てんですか。暇ならさっさとお風呂に入って寝ろ」
「ハイ」
 敬語の無くなったイルカ先生にこれ以上聞くと怒り出すと判断して、すごすご風呂に向かった。
(それにしても夢見てるって・・)
 どう言う意味なんだろう?
 喜んだ方がいいのかへこんだ方がいいのか。
 イルカ先生全く容赦ない物言いに少しばかりしょぼんとなって、まともな判断が出来なかった。


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