恋ごころ -前編- 




「いい加減にしねぇか!」
 怒号と共に振り上げられた腕を避けずにいたら、ガツッと頬骨が鳴った。遅れてジンジンと痛みが広がり、口の中に血の味が滲んだ。殴った方はと言えば、俺が避けると思ったのか、苦虫をかみ潰したような顔で握った拳を解けずにいた。
「…兄ちゃんごめんなさい」
 俺はこの言葉を何度言っただろうか?
 俺が何かしでかした時、相手の親に謝ってくれるのはいつもアス兄だった。子供の頃、頭を下げようとしない俺の頭をぐいっと押さえて、自分もいっしょに謝ってくれた。両親を喪った後、火影邸に身を寄せたのが縁で、アス兄は俺の保護者になった。本来なら災害孤児の保護者は火影様だったけど、あまりの問題の多さに俺だけアス兄に引き継がれたのだ。里長がそう何度も頭を下げていられないから。
 殊勝な顔でしゅんと項垂れていると、溜め息を吐いたアス兄が拳を解いた手で項を掻いた。ベストの内ポケットから煙草を出して口に咥えるのをじっと見つめる。
 ここからが説教が長くなるか短くなるかの瀬戸際だ。殊更小さくなると、ぷかりと煙を吐き出したアス兄が、「行くぞ」と言った。
「腹が減ってるだろ。酒酒屋でいいか?」
「うんっ!」
 アス兄の重圧から解放されて、ぱあっと笑顔を浮かべると切れた口がちくりと引き攣った。
「いて…」
「…チッ、なんで避けねぇんだ」
 促されて口を開けるとアス兄が中を覗き込んだ。大きな体の陰に入り、心臓がドキドキする。かさついた手が腫れ始めた頬に触れ、この手に抱かれたらどんなだろうかと想像した。
 けど駄目だ。アス兄には好きな人がいる。
「なんともないよ」
「…ったく」
 煩そうに頬の手を払いのけると、ぽんぽんと頭を叩かれた。アス兄の大きな手が好きだ。この手が欲しくて俺はいくつになっても馬鹿をする。





「こんばんは。アラ、イルカ先生、今日は随分と男前ね」
 アス兄と二人で飲んでいたら、俺の隣に紅先生が座って、いつもの冷酒を注文した。紅先生はアス兄の隣に座って俺を仲間外れにしたりしない。俺は紅先生のそんなところが好きだが、――つまり俺は完敗だった。
「で、どうしたの?」
 カウンター越しに受け取った冷酒を一口飲んでから紅先生が聞いた。
「聞いて下さいよ。俺、彼女出来たんですけど、その人に旦那さんがいて修羅場になったんです〜!最初に聞いた時「彼氏はいない」って言ってたのに〜!」
 憤懣して酒を呷ると、「おかわり!」とカウンターの向こうに空になったグラスを突きだした。
「あらあら、じゃあイルカ先生失恋したんだ」
「そんな可愛いもんじゃねぇ。亭主と別れる別れないの話になって、怒った亭主が刃物持ち出したんだ。相手も忍びで私闘は御法度だってのによ」
「それでそんなになったの?」
 紅先生にツンと頬を突かれ顔を顰める。
「イテッ、…いえ、これはアスマさんにです」
「どうして?イルカ先生悪くないじゃない」
「でしょう?」
「……………」
 紅先生の言葉にアス兄は口を閉ざした。アス兄は本当の俺を良く知っている。悪くなければアス兄は俺を殴ったりしない。殴られたのは、俺が彼女の家庭を掻き回して、挙げ句の果てに捨てたからだ。俺はうすうす彼女に別の相手がいるんじゃないかと思っていた。外した指輪の跡や不自然な行動から。
 それでも知らん顔して付き合っていたら、特別何か言った訳じゃなかったけど、俺と本当の恋愛をしていると思い込んだ彼女が、旦那と話をつけようとした。俺にバレない内に独り身になりたかったのかもしれない。だけど当然そんなことが叶うワケもなく、旦那は怒って、俺のところに怒鳴り込んできた。
 修羅場なんて面倒くさい。彼女への関心はあっと言う間に消えて、「もういらない」と言えば、激高した旦那に刃物を向けられた。
 彼女は泣き喚くし、大騒ぎになって人が集まるし散々だった。適当に迫り来る刃物を避けていたら、騒ぎを聞きつけたアス兄が仲裁に入った。
 あとは冒頭へ戻る、だ。
 アス兄の顔に免じてその場が丸く収められ、でも何故かアス兄には俺のしたことが筒抜けで殴られた。
(…うん、まあ、こんな事が両手の指の数じゃ収まらないぐらい起これば分かるかな?)
 幸か不幸か、男にも女にも良くモテた。殺生沙汰も今回が初めてではなかったから、冷静でいられた。毎回場を収めに来るのはアス兄だ。こんなことばっかりしているのに、どうしてアス兄が俺のことを嫌わないのか不思議になる。

「まったくコイツには世話を焼かされる。里を出ていた時にだって、親父から来た手紙に『イルカが大変だ』って書いてあるから、大怪我でもしたのかと帰ってみれば、一丁前にグレてやがる。喧嘩はするし、酒は飲むし…。なぁ?」
 ぐりぐりと押さえつけるように頭を撫でられて俯いた。
 酒が入るとアス兄は昔の話をする。紅先生だって何度も聞いて飽きてるだろうに、見るとニコニコ笑っていた。
 14の時だった。子供の頃から兄のように慕っていたアス兄が突然目の前から居なくなってショックを受けた。それでも修行に出たのだと、大人しく帰りを待って2年が過ぎた時、火影のじっちゃんからアス兄はもう帰って来ないかもしれないと聞かされた。
 ショックなんてもんじゃなかった。泣いてじっちゃんを詰って、そこまで悲しむ自分に俺はアス兄に抱いていた気持ちに気づいた。気付いたと同時にもう二度と会えないと知って、荒れに荒れた。
 悪い仲間とつるんで、酒と女を覚えた。里外任務にも出るようになっていたから、ついでに男も覚えた。慌てたじっちゃんがアス兄を呼び戻した時には、俺がアス兄に差し出せる物は何も残ってなかった。
 それから4年。ずっと秘かに片思い中だ。
 がははっと大笑いするアス兄の声に現実に引き戻された。
「アス兄、飲み過ぎだって!もうその話はいいよ!」
「こんなもん飲んだ内に入るか」
 確かにアス兄は酒に強いが――。助けを求めて隣を見れば、紅先生が微笑んだ。
「大丈夫よ。イルカ先生だってまだ飲み足りて無いでしょ?」
「…はい」
 紅先生に徳利を傾けられて素直にグラスを差し出せば、さっとアス兄のグラスも隣に並んだ。美人にして貰うお酌はいい。グラスの縁に唇を付け、こくっと喉を潤せば、さっきまでよりお酒が美味しくなった気がした。
 くのいちの人は何かそういう技を持っているのだろうか?
 ちらりと隣を見れば、アス兄が満足そうにグラスを傾けていた。ちくりと疼いた胸には気付かないフリだ。
「コンバンハ」
 居酒屋の喧噪の中から聞こえてきた声に、はっと振り返るとカカシ先生が立っていた。この人の声って楽器みたいに良く響く。
「こんばんは」
 眠そうな顔したカカシ先生に声を掛けると、軽く顎を引いてアス兄の隣に座った。こっちから見ると額当てと口布で顔が見えなくなる。
「珍しいじゃねぇか、居酒屋に来るなんて」
「そんなことなーいよ」
 カカシ先生はビールと肴を幾つか注文すると、あっさり口布を下ろした。
(うわっ!)
 整った横顔に目が釘付けになる。カカシ先生の素顔を見るのは初めてじゃないけど、いつ見ても吃驚してしまう。『目が覚めるような』と言う形容詞がぴったり嵌る男前なのだ。
 最初見た時は、本当にうわっ!と声を上げてしまった。それで「見せ物じゃなーいよ」と苦笑されてしまったので、以来、声は上げないようにしているが。…にしても、普段とギャップが激しい顔だ。普段のカカシ先生って、山羊と羊みたいに草とかもしゃもしゃ食ってそうな、のほほ〜んと気の抜けた顔なのに、口布を下ろすと急に男前になる。そのくせ男の色香もあったりして…。
「あ、ちょっとトイレ」
「おぅ、立てるか…?」
「そんなに飲んでないよ」
 細い通路を通って店の奥へ進むとトイレに入って用を達した。戻ってくると、空になった俺の席を挟んでアス兄と紅先生が話していた。最初から、俺なんか居なかったみたいに。
「アス兄、席ずれて。俺、カカシ先生と話したい」
 元より傾いていたアス兄の体をぐいっと押すと紅先生の方へ押しやった。そうして出来た隙間に体を割り込ませると、強引に腰を下ろす。
「コラ、イルカ」
 俺の不作法にアス兄が怒った声を出したが、こっちは感謝して貰いたいぐらいだった。自分から隣に座れず、もたもたしていたくせに。好意を抱いてるくせに、いつまで経っても告白しないから、端で見ているとイライラした。さっさと白黒付けて、俺に諦めさせて欲しい。
「カカシ先生、こんばんは」
「…ウン」
 グラスが空になりかけているのを見て、ビール瓶を傾けると、カカシ先生がグラスを手に取った。なみなみと注ぐとグラスに口を付けたカカシ先生が一気に煽った。
「わ、カカシ先生、お強いんですね!」
「…ウン。…………」
「………」
 正直、俺はカカシ先生が苦手だった。なんせ会話が続かない。さっき俺は、カカシ先生を山羊か羊に例えたが、まさにそんな感じだ。困って目の前のグラスと取ったら、口を付ける前に、「ソレ、アスマの」と注意を受けた。
(ああ、そうですか)
 どっちでも構わないだろうと思うが、隣のグラスと入れ替える。ちびちび、ちびちび酒を飲むが、
「……カカシ先生、なにか食べませんか?」
 会話の糸口を探してメニューを広げた。さすがに無視されることもなく、カカシ先生が視線を向けた。
「…………何が食べたいですか?」
「…………」
 黙りこくったカカシ先生に、試しに刺身を指差してみる。コクンと頷いたのを見て注文した。それから焼き鳥とサラダを注文して、天ぷらを指した時だけ首を横に振った。
「お嫌いなんですか?俺は好きだけど…」
「………」
 何も言わないから、軟骨の天ぷらを注文してやった。ショックを受けたような顔で俺を見るのが可笑しかった。
「あはは!そんな顔しないでくださいよ。無理に食べろなんて言いませんから」
 じわわと色白なカカシ先生の頬に朱がさした。
 案外照れ屋みたいだ。子供達から聞く話では、よく話すし、怖かったりする時もあるらしいが、どうもイメージと繋がらなかった。
 料理が運ばれ、ほどよく酒が回ってきた頃に紅先生が聞いた。
「そう言えばカカシ、前に彼女が欲しいって言ってたけど出来たの?まだなら合コンをお願いしたいんだけど」
「えっ!合コン…!?」
 カカシ先生より俺の方が強く反応した。カカシ先生に彼女が居ないのは意外だし、合コンの空気がカカシ先生にそぐわない気がした。その前にアス兄がいるのに合コンってなんだ!紅先生の行動を止められないアス兄が不甲斐なかった。
「…カカシ先生なら合コンなんてしなくてもモテるんじゃないですか?」
 暗にするなと意味を込めて言うと、アス兄が手を横に振った。
「ああ、駄目駄目。コイツ、自分から声が掛けられねぇからな」
「え、そうなんですか?でもカカシ先生ほど男前なら、自分から声を掛けなくても向こうから寄って来るでしょう?」
 と言ったのはリップサービスだったが、カカシ先生が頬を赤らめた。
 なんとなくモテない理由が分かる。確かにカカシ先生は男前だが、ここまでしゃべらないと一緒にいるのは苦痛かもしれない。
(それでも写輪眼のカカシだしな。良いって言う女も多いだろうに。…なにか問題があるとか?)
 不思議に思って、じぃっと見ていると、ますますカカシ先生が顔を赤らめた。
「オ、オレのことはいーの!合コンなんてしないよ。付き合うのは、ちゃんと好きになった人じゃないと駄目だから…。だから…」
「お前ぇはいつまでもそんなことを言ってるから童貞なんだ」
「え!!!」
「アスマ!」
 俺の驚きの声をカカシ先生の声が消した。視線が合うと、カカシ先生がおろおろと狼狽える。
「ほんとなんだ…」
 俺のつぶやきがカカシ先生に止めをさした。カカシ先生がテーブルに突っ伏して頭を抱えると、「うぅ〜」とか細い声を上げる。僅かに覗いた耳が真っ赤だった。
「そんな大事にとっとくようなもんかよ」
「仕方ないデショ。最初は好きになった人が良いって思ったんだから」
 その言葉は、俺の胸を刺した。とうの昔に馬鹿をやって、差し出せる物を失った俺にはキツい。
「…じゃあ、カカシ先生は初恋もまだなんですか…?」
「え…と、その………」
 黙り込むカカシ先生が急に憎くなった。初恋もまだで、尚かつ初恋の相手と最初に結ばれようなどと、24にもなる男が考えることか!そもそも初恋が叶うものか!!
 ズキッと胸に痛みが走り、墨が染み込むように残酷な気持ちが沸き上がった。
(そのお綺麗な心を踏みにじってやりたい。)
 だけどこの人はアス兄の友達だった。
 すっかり面白く無くなって、煽るように酒を飲むと席を立った。
「…おれ…、もう帰ります」
「おい。大丈夫か、イルカ?」
「らいじょうぶ…」
 少々足はふらついたけど、頭の芯は冷めていた。財布から自分の分の札を引き抜くと頭を下げた。
「アスマ兄ちゃん、今日はごめんなさいでした」
 俯くと、どっと悲しくなったが、顔を上げる時は無理矢理笑った。
「おやすみなさい」
「おい!待てって…、勘定!」
 アス兄が慌てて勘定を済ませようとしたけど、バイバイと手を振ると振り返らずに出口に向かった。追い掛けて来たところで、アス兄に送って貰えないのは知っていた。それでも追い掛けてくることがあるから足早に店から遠離った。商店街まで来るとひっくと喉が鳴った。目の前がじゅわっと滲む。
「待って!イルカ先生」
 突然腕を掴まれて、涙を引っ込めた。振り返ったらカカシ先生が居る。
「…なんれ?」
「送ります。その…、イルカ先生、酷く酔ってるみたいだから…」
「酔ってないれす!」
 失礼を承知で、ぶんっと腕を振るとカカシ先生の手を払った。分かっていても、追ってきたのがアス兄じゃないのが悔しい。
「カカシ先生、おやすみなさい」
 形だけは礼儀正しく頭を下げると、とぼとぼ歩いた。早く一人になりたい。本当は分かっていた。俺がお節介しなくても、あの二人がくっつくのは時間の問題だ。
「…ぅ〜、ひっく…」
 再び涙が込み上げたが、
「……………………なんれついてくるんれすか!」
 振り返ると、カカシ先生が困った顔で頭を掻いた。
「あの…、アスマにイルカ先生が失恋したって聞いて…、平気なフリしてたけど、本当は辛いはずだって、アスマが…。だから……」
 へぇ、とどす黒い気持ちが沸き上がった。そんな風に思っていたのか。
 アス兄はこれっぽっちも俺の気持ちを分かっていない。アス兄の勘違いに対する怒りがカカシ先生へ向いた。
 恋したこと無いくせに、何が分かると言うのだ。踏みにじってやりたい。お綺麗な顔したこの人を、ボロ雑巾のように傷付けてやりたい。
「…だから、なんですか?カカシ先生が慰めてくれるんですか?」
 上手い具合に涙がぽろぽろ零れた。端から見れば、さぞ憐れに見えるだろう。
(あ、でもこの人、好きな人とじゃないと駄目なんだっけ…?)
 思いながらも潤みきった瞳でカカシ先生を見上げてみる。
「…っ!」
(…へぇ、そうなんだ)
 動揺して瞳を泳がせたカカシ先生に悟った。俺は自分に向けられる好意には敏感だ。
(カカシ先生って、俺が好きなんだ)
 可笑しくって笑いが込み上げてくる。気付けば、居酒屋での反応も納得した。
「……今夜、カカシ先生の部屋に行ってもいいですか?」
 断られるなんて微塵も思ってなかった。案の定、カカシ先生は真っ赤になった顔で頷いた。



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