やってしまった、としか言いようがない。
つい、攫ってしまった。
本来なら存在しない人だったから。
許されることではない。
だけど中忍の俺が攫ってこれたのは、多少なりともこの人に同行の意思があったんじゃないかと思いたい。
初めて訪れる部屋を珍しそうに眺めるあの人を、一体なんとお呼びすればいいのだろう?
「えと、カカシ、・・さん?」
「えっ!?」
初めての呼び方に驚いた表情で彼が振り向いた。
「いえっ・・あの・・、・・・ごめんなさい・・」
いくらなんでも親しげな呼び掛けは厚かましかったかと言葉を濁して萎縮する。
彼はとても遠いところにいる人だった。
いつかあなたに 1
彼と初めて出会ったのは三年前。
ナルトに紹介されて挨拶を交わした。
片目しか見えない怪しげな風体に内心戸惑いつつも、こんばんはと目を細めた人懐っこい笑顔にほっとした。
接点は限りなく少なく、個人的な付き合いは無い。
受付や廊下ですれ違った時に挨拶を交わすだけ。
カカシ先生とはそんな関係だった。
それがいつからか想いを寄せるようになった。
ナルトから話を聞いてその姿を思い浮かべるうちに。
受付や廊下で、こちらよりも先に気付いて声を掛けてくれる様に。
いつの間にか心の中に、カカシ先生が棲みついていた。
――カカシ先生が胸の大部分を占めて俺の中に居る。
そう自覚したときにはもう後戻りなんて出来ないところに来ていた。
自覚すると共にその恋は胸の奥底に仕舞いこんだ。
こんな想いを。
相手を不快にこそすれ喜ばれることの決してないこの想いを知られる訳にはいかない。
気付かれたら少なかった接点は無になってしまう。
想いをひた隠しに隠したまま、三年の月日が流れた。
その間にナルトは修行のため里を離れ、カカシ先生は単独任務に駆り出され、無いに等しかった接点は更に無くなった。
姿を見なければ叶わぬ恋に苦しむことも無くなり、いつかこのまま想いが消えてしまうのを望んだ矢先、その期待は裏切られた。
* *
夜の空気を切り裂くような警笛に空を見上げた。
賊の侵入を知らせるその音色に屋根へと上がれば、遠くで散らばる複数の人が見えた。
こちら側に走り来る賊の前に回りこむ。
手裏剣を投げれば易々と弾かれ、迫り来る速度と気迫に相手の実力を知った。
(――上忍だ・・。)
視界の端で他の忍び――恐らく上忍――が動き出すのを目に留めて、少しばかりの足止めを試みたが、荷が勝ち過ぎた。
追い詰められて小さな傷をいくつも負った。
それでも何とか応戦していると、舌打ちした相手が死角から刀を抜いた。
気付いた時にはそれは胸の前に迫り、腕を一本駄目にする覚悟で刃の前に差し出すと、ぐんと体に重力が掛かり空を飛んでいた。
ついさっきまで対戦していた相手から血が吹き出し、崩れ落ちる。
(え?・・え?)
木の枝に下ろされ、軽く混乱しているといつの間にか体を拘束していた腕が緩んだ。
「大丈夫?」
刹那、胸が震えた。
聞きたくてたまらなかった声がすぐ傍でする。
「カカシ、先生・・?」
「うん」
短く返事するとカカシ先生はポーチから布と消毒薬を出して、俺の傷に押し当てた。
その冷たい感触にほっとしながらも、他に複数の賊が居たことを思い出した。
「カカシ先生、行かないと!他にも賊が・・」
「だいじょーぶ。暗部出てるし、・・ホラ」
指差した方向を見れば、今目の前に居る人と寸分違わぬ姿をした人が忍犬たちを指示していた。
(・・そっか、この人は・・影だ)
でなければ、彼が自分の隣に居る筈がない。
その事実に心を痛めながらも、頬を濡らす消毒薬の匂いに混じってより濃く血の匂いがするのに気付いた。
「カカシ先生、腕が・・!!」
袖口から肘に掛けてぱっくり開いた傷口から血が流れ出している。
「ああ、これね・・。さっき間に入った時に・・ね」
ちらりと視線をやっただけで事も無げに言うのに、カカシ先生が手にしていた消毒薬を奪い取ると中身を傷ついた腕に引っ繰り返した。
「うわっ、イルカセンセ、オレはいいから・・」
「駄目です!!こんなに血が出てるのに・・!」
滴り落ちる赤い液体に泣きそうになる。
「ごめんなさい・・っ」
ポーチから止血剤を出して塗りたくって、包帯を巻こうとするとカカシ先生が苦笑しながら腕を引こうとした。
「そうじゃなくって・・。そんなの勿体無いよ、どうせすぐ消えるから」
だから必要ないと唯一片方だけ見えている目を細めた。
「あ・・」
そうだった。
この人は影だから。
用が終われば消えてしまう。
怪我をしたから本体には戻らない。
それでも首を横に振るとカカシ先生の腕に包帯を巻いた。
実体と何一つ変わらない人が血を流しているのに放ってはおけなかった。
大切だったから。
ずっと、胸の奥で大切に想ってきた人だったから。
「・・・ありがとね」
巻き終えた包帯にカカシ先生の目が優しく撓む。
掛けられた言葉に首を振ると、空にまた笛の音が響いた。
撤退の合図。
「終わったみたいだね」
ほっと溜息を吐くのに、体中がざわついた。
消えてしまう、カカシ先生が・・。
出来ることなら、今、この時を止めたい。
「じゃあね、イルカ先生」
怪我の無い手でぽんぽんと肩を叩く。
その別れの挨拶にぎゅっと心臓が潰れた。
「い・・やだ・・、・・消えたら嫌だ!いかないで!」
「えっ?えぇっ?」
堪えていた涙がわっと溢れ出る。
戸惑うカカシ先生の体をぐいぐい押して、強引に家に連れて帰った。