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 朝の光を分厚いカーテンが遮っていた。僅かに開いた隙間から、光の筋が線を描く。その先に、真っ黒な棺桶が横たわっていた。
 光を受けてツヤツヤと黒光りする棺桶には、一人の男が気を失ったように凭れ掛かっていた。
「…イルカ……」
 手が持ち上がり、優しく棺桶を撫でる。男の目からぽたりと涙が落ちて、棺桶を濡らした。
「イルカ…イルカ…」
 薄暗い部屋に男――カカシの泣き声が響いた。イルカが眠ってしまってから、カカシはずっとこうしていた。棺桶に寄り添い、毎日泣いて過ごした。
 泣いても応えてくれないのは、頭では理解出来ても心が受け入れられなかった。
 声を聞けないのが寂しかった。笑顔が見られないのはもっと寂しかった。
 イルカに会いたい。イルカと話したい。
 カカシは体を起こすと棺桶の蓋を開けて、イルカの顔を覗き込んだ。目を閉じて眠るイルカは、肩を揺すれば今にも起きそうだった。
「イルカ…」
 だけどイルカはいくら呼んでも起きない。永い眠りに就いてしまったから。
 ポロポロと涙が溢れてイルカの顔を濡らした。いけないと頬を拭うと、手の平にイルカの温もりが伝わる。それが余計に切なかった。
「ぅ…っ、…うっ…」
 イルカが眠ってしまって、これほど哀しくなるとは思わなかった。
 喧嘩している時なら良かったかもしれない。起きて口を利かないか、寝て口を利かないかの差だ。
 でもイルカと恋人になって、共に過ごして幸せを知ってしまった。イルカに優しくされる喜びを知ってしまった。
 思い出すイルカの笑顔がカカシを哀しくさせた。イルカと戯れた記憶が、いっそうカカシを孤独にした。
 何もする気にならなかった。
(イルカと約束したのに…)
 バラの花をたくさん用意すると約束した。カカシは庭にバラの花園を作ろうと考えていた。イルカが起きた時、庭一面にバラが咲いてるのを見たらビックリするだろう。とびっきり喜んでくれるに違いない。
 しかしカカシはその準備を全くしていなかった。眠るイルカの傍から離れられない。
(いっそ一緒に眠ることが出来たら良いのに…)
 そう願って目を閉じるが、朝はカカシにだけ容赦なく訪れた。
「…イルカ、ずっと傍にいるよ」
 イルカの目が覚めるまで、ずっとこうしていようと決めた。食事をしなくても構わなかった。飢えよりもイルカがいないことの方が、遙かに辛い。
 やはりイルカ無しで生きていくのはムリだった。
 きっとイルカも許してくれる。

 更に数日が経った。時々アスマと紅が様子を見に来たが、玄関を開けずにいると帰っていた。
 骨と皮ばかりになった手でイルカを撫でた。
 不思議とイルカは痩せなかった。眠っているからだろうか?イルカには特別な力が働いているらしかった。
 同じ時を食事を摂らないで過ごしたのに、カカシばかり痩せていった。
 老人の様にかさついた手でイルカの柔らかい頬を撫でた。このまま行けば、やつれ果てて眠れる気がした。
「……」
 名前を呼びたかったが、喉が嗄れて声が出なかった。意識が朦朧とした。そっとイルカの胸に頬を載せる。
 その時、ぷ〜んと羽音が聞こえた。どこからかハエが入って来たらしい。ブンブン煩く飛び回って、カカシの眠りを妨げた。
(チッ!)
 衰えてもカカシの目は鋭かった。ハエの動きを捕らえると、素早く手を払って排除した。だが、べつの方向からも羽音が聞こえた。
(…なんなのよ、もう!)
 音の出所を探した。視線を彷徨わせるが、何処かへ行ってしまったのかハエの姿は無かった。
(…ったく)
 イルカの方へ視線を戻した。
 すると、イルカの額の上に黒い点があった。良く見るとハエが止まって前足を擦り合わせていた。
「ぎゃー!! オレのイルカに!」
 ハエの分際でイルカに止まるなんて許せなかった。怒りに任せて手を振ると、目測を誤ってイルカの額をべちっ!と叩いてしまった。
「ぎゃー!!」
 変わってないつもりでいたけど、食事もせずにいたせいで身体能力が衰えていた。
 みるみる赤く染まっていくイルカの額に涙した。
「イ、イルカ! ゴメンネ!ワザとじゃないんだよ…?」
 おのれ、ハエめ。
 怒りの矛先はハエへと向かった。立ち上がると、ハエの排除に全力を尽くした。いつもなら簡単に出来るのに、動きが鈍くてハエに逃げられた。
 ようやくハエを退治して戻って来た時には疲れ切って、肩で息をしていた。
「ゴ…ゴメンね…イルカ。これでもう大丈夫だよ?」
 傍に座って棺桶の中のイルカを覗き込む。
 その時ふと気付いた。
(…なんか変な匂いしてない?)
 一体どこからだろう…。部屋中を見回して、それが認めたくないが、イルカからだと気付いた。
 イルカから、変な匂いがしている。
 ハッとした。
(もしかして、床擦れ!?)
 イルカが眠ってから、一度も姿勢を変えてなかった。慌ててイルカの姿勢を変えると、服を脱がして肌の色が変わってるところが無いか確認した。
 でもどこを探しても床擦れしているところはなかった。
 ほっと安心するが、服を脱がした事でイルカの臭さが増していることに気付いた。
 その時、ふと古い記憶が蘇った。
 それはイルカと初めて出会った時。カカシはイルカを浮浪者だと思った。それぐらいイルカは汚れていた。
(…もしかして、あの時ってイルカが目覚めた時だったの?)
 だとしたら、あれほど飢えに慎重だったイルカが飢えていたのも納得出来た。そして、これからのイルカの未来も想像出来た。
「…風呂に入れよ」
 カカシは決心した。イルカが目覚めるまでの十年間、イルカを綺麗に保とうと。


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