出来心 後編
カカシ先生が眠ったら、お暇しようと心に決めた。それまでの間、少しでもカカシ先生が長く起きていてくれるように必死にジャレついた。
カカシ先生の長い指が耳を弄ぶと、ぴんと立った薄い耳を良いと思った。指先を与えられ、甘く噛むことの出来る小さな牙を良いと思った。膝に手を掛けて伸び上がるしなやかな体を良いと思った。
(ずっと、このままでいたい……!)
「ぅなんっ!」
カカシ先生が操るタオルの端に飛び掛かった。両手の爪を引っかけて、離れまいとしがみつくと、体をひっくり返されて腹を擽られた。
「ぅう〜、うにゃっ!」
(うひゃひゃひゃっ!くすぐったい!カカシ先生ずるい!)
カカシ先生の腕にしがみついて猫キックした。
「あははっ!お前、必死すぎ」
「……!」
カカシ先生の笑い声を初めて聞いた。なんて楽しそうに笑うんだろう。なんて優しく笑うんだろ。
見ていると、胸が苦しくなって泣きたくなった。
「にゃーぉ…」
「どうしたの?疲れちゃった?」
はっとして、そんなことないとカカシ先生の足に纏わりついた。
(もっと遊んで!)
まだ元気だと足下で飛び跳ねる。
「そろそろ寝ようか…」
(駄目…!寝たら駄目!)
今にもソファから立ち上がりそうなカカシ先生に声を上げた。
「にゃー、にゃー」
カカシ先生がじっと俺を見下ろす。膝に手を掛けてまだ遊ぼうと誘うと、カカシ先生が俺の両手を掴んで掬い上げた。じっと見つめられて首を傾げる。
(……カカシ先生?)
黒い手の甲にそっと唇が押し当てられる。
「クロ」
(え…?)
「お前の名前はクロに決めたよ」
(俺を飼ってくれるの?)
嬉しいのと哀しいのが同時に来た。カカシ先生が俺の小さな額に顔を擦りつける。目を閉じて、カカシ先生の愛情を受け取った。
ごろごろと喉が鳴る。
カカシ先生が大好きだった。
カカシ先生は俺を抱き上げると、同じ布団に入れてくれた。あの柔らかい布団を体に掛けてくれる。
「おやすみ」
首の付け根を撫でられて喉を上げた。
「にゃあ」
目を細めたカカシ先生の頬をてちてち舐める。
ふふっと小さく笑ったカカシ先生が目を閉じた。柔らかく笑った口元に体を寄せて丸くなった。
カカシ先生の息が体を擽る。
(帰りたくない…!)
だけどそんな希望が叶わないことは重々承知していた。
夜が更けるのを待って布団を抜け出た。カカシ先生は熟睡していて俺が動いたことに気付かなかった。静かに窓辺に上がると、後ろ足で立って前足で鍵を開けた。体が通る分だけ窓を開けると、カカシ先生を振り返った。窓に背を向けて眠るカカシ先生の銀髪が月に輝いていた。その光景をしっかり目に焼き付けると外に飛び出した。窓枠から近くの木に飛び移ると塀に降り立つ。見上げても窓枠しか見えなくて、そこにカカシ先生の姿は無かった。
「にゃーぉ」
一声鳴くと、さっと踵を返して家まで疾走した。
深夜だったせいか、黒い姿が闇に隠れたのか、帰りはネコに会わずに済んだ。
出て行った窓から部屋に入ると変化を解いた。煙が上がって長い手足と大きな体が現れる。
「ぅ……」
じわりと涙が浮かんだ。
「ぅっ……うっ……」
鼻の奥がつんとした。
「うぅ…、ふぇっ、……ぇっ…ぇっ……ぅぇーんっ」
我慢の限界だった。涙がぼたぼた流れて顔がぐしゃぐしゃになった。
カカシ先生が恋しい。
ネコじゃない我が身が哀しかった。
「うわーんっ!」
ばたばたと布団に潜り込んだ。固くて湿った布団が嫌だ。
枕に顔を押しつけて、声を上げて泣いた。泣いても泣いても悲しみは去っていかない。
優しかったカカシ先生を思い出しては涙が溢れ続けた。
「イルカ、疲れてるなら休んできていいぞ」
受付所でどんよりと座っていたら、同僚が進めてくれた。礼を言って裏庭に来ると木陰に座る。
思えばすべてはここから始まった。ここでカカシ先生の優しい声を聞いたから、俺は気まぐれを起こした。ほんの出来心だった。それがどういった結末を迎えるかなんて、考えてなかった。
(おいで、おいで……)
(クロ)
カカシ先生の声を思い出して、目の前が滲む。涙を我慢すると鼻が詰まって、盛大にすすり上げた。
「……ずっ……ずるっ……」
カカシ先生が傍にいないと俺はひとりぼっちだ。
目を閉じると木の根元に寝転がった。眠って辛いことから逃れたかった。
(……カカシ先生の夢を見ないかな)
ぽかぽかと降り注ぐ木漏れ日が寂しい体を温めた。ウトウトと眠りの波が押し寄せるが、固い木の根が熟睡するのを妨げた。カカシ先生の膝が恋しい。
………………………………
………………………………
……………………クロ……
どこからともなく声が聞こえた。
(カカシ先生が俺を捜してる……!)
ガバリと起きて辺りを見渡したが、真っ暗で何も見えない。
……クロー……クロー……
(カカシ先生!俺はここです!)
早く見つけて欲しいが、ネコじゃないからカカシ先生に俺の姿は見えなかった。
……クロー……
声がどんどん遠ざかっていく。
(待って!)
急いでネコになろうとするが、焦って印が結べなかった。
……ロー……
(待って!カカシ先生待って!)
消えそうな声にだらだら涙が零れる。
(俺を置いてかないで……!)
「クロ!!!」
「はいっ!」
大きな声に吃驚して飛び起きた。暗闇だった世界が白く輝く。差し込んだ日差しに目蓋を押さえた。顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。眠りながら泣いていた様だ。鼻も酷く詰まっていた。
「………ぐしっ……ぐしゅっ……っく…」
濡れた顔をごしごし擦った。何度も鼻を啜って空気を吸い込む。
「………………」
(誰か俺のこと呼ばなかったっけ……?)
そんな気がして恐る恐る手を除けると、忍サンダルを履いた誰かの足が見えた。
ぎょっ!!なんてもんじゃなかった。本気で心臓が止まった。
(だ、誰だ……?)
顔を上げるのが怖かった。眠りから覚める前に呼ばれた声に聞き覚えがあった。
(でも、あれは夢で呼ばれたんだよな?)
そうだと思いたいが自信が無くて、心の声も弱々しくなった。
(……カカシ先生だったらどうしよう……)
「ちょっと聞きたい事があるんですが、いいですか?」
サクッと刃を突き立てられたようだった。声の主はカカシ先生だ。
「は、はい……、なんでしょう?……あはは、夢の中で泣いちゃって……」
濡れた頬がカッコ悪くて、泣いてるのを誤魔化してみたが、カカシ先生の反応は薄かった。…と言うより無かった。
「黒いネコを探してるんですけど、見かけませんでした?」
(俺が泣いてるのは無視かよ。……そうだよな、興味ないよな)
ネコについて言及されてドキーンとしたが、カカシ先生の関心が俺より断然ネコにあることにガッカリした。
「昨日のネコですが?さぁ、知りません。今日は見かけてないです」
そそくさと立ち上がって、尻に付いた土を払った。余計なボロが出る前に退散するに限る。昨日のネコが俺だと知って幻滅させたくなかった。
「そ、それじゃあ、失礼します」
なにより軽蔑されたくない。カカシ先生に昨日のネコが俺だとバレたところなんて、想像するのも怖かった。
ペコリと頭を下げるとカカシ先生の横を通り過ぎる。
「いえ、昨日のネコじゃなくて、里で拾ったネコなんですけどね。飼ってやろうと思ってたのに、朝になったらいなくなってたんです」
カカシ先生の声が追いかけて来た。
(……飼ってくれるつもりだったんだ)
嬉しくて、じわりと目が染みた。
(もうあの場所にはいけないけど……)
声を出すと震えそうだったから、頭を横に振った。
「本当に知りませんか?黒いネコで、鼻筋に傷があるんです。ちょうど、アナタみたいに」
(ウソだ!見えなかった!)
カカシ先生の言葉に動揺して、鼓動が千々に乱れた。
何度も鏡で確認した。鼻の傷は黒い毛に覆われていた。
カカシ先生は何を暴こうとしているのか。
「イルカ先生。オレはね、新しい傷しか治せないんです。古い傷跡までは消せないんですよ」
あ!と思った。目の下の傷を治してくれた時、カカシ先生は鼻筋にもキスした。
「し、知らないって言ってるじゃないですか!俺、忙しいんです…!もう行きますっ」
手足がガクガク震えた。認めた時、カカシ先生がどんな出方をするのか…。
(どうしてあんなことしたんだろう。時間が戻せるなら、もう絶対にしない!)
だけど、背後から聞こえてきた声は思いの外、静かだった。どこか疲れた様な、諦めた感じさえある。
「イルカ先生、オレはまどろっこしいのも駆け引きも嫌いです。アナタにそのつもりな無いなら諦めます。クロは本当にアナタじゃないんですか?」
言葉の意味を考えて迷ったのは一瞬だった。これは最後の問い掛けだ。この期を逃せば、『再び』が訪れることは無いだろう。
わあっと押え込んでいたものが込み上げた。
「ごめんなさい!!騙すつもりはなかったんです!ただ喜んで欲しくて……!」
カカシ先生へと駆け寄りながら、素早く印を結んだ。ばっと飛び掛かる途中でネコに変わる。
「うわっ!」
驚くカカシ先生のベストにひしっとしがみつくと声を上げた。
「うなーん!うなーん!」
(俺を嫌わないで!!嫌わないで!!)
そばにいられるなら、一生ネコでもいい。
「うなーん!!」
「バカ。それじゃあ分からないデショ?」
カカシ先生が、がしっと俺を掴んで引き離した。「解」と強制的に変化を解かれる。盛大に煙を上げて人に戻りながら、ネコの余韻で鼻水を垂らした。遅れて涙が零れ落ちる。カカシ先生が怖い顔で俺を睨んだ。
「アンタね!あれだけ愛想振りまいといて、トンズラするなんてどういうつもりよ!こっちはだばだば愛情降り注いでるのに!居なくなったら相手がどんな思いするか考えなかったの?責任とれっつーの」
「……ごめ…にゃさい……」
「じゃあ、オレが飼い主ってことでいいね」
「あい…!」
返事するとつり上がっていたカカシ先生の眉がへなっと下がった。小さくため息を吐くとポケットからハンカチを出して俺の顔を拭いた。鼻にハンカチを当てられて、ふんっと踏ん張ると鼻水を綺麗に拭われた。丸めたハンカチがポケットにしまわれる。
「いつまでも泣かないの。……行くよ」
「あい…!」
両手をポケットに突っ込んで歩くカカシ先生の背中についていった。
こんな幸運なことがあるんだろうか?
にわかに信じられなくて、カカシ先生を呼んでみる。
「ご主人様…っ!」
丸めた背中は振り向いてくれなかったけど、髪の毛からはみ出た耳が薄紅色に染っていった。
← 完