出来心 前編





「おいで、おいで」
 それは裏庭から聞こえてきた声だった。
「ホラ、こっちにおいで」
 鼓膜がビリリと振るえる様な優しい声で、傍へおいでと誘う。
 誘われるまま裏庭に足を踏み入れると、カカシ先生が伸ばした指先に鼻を近づけようとしていた黒猫が、ぱっと踵を返して茂みの中に逃げた。
「あっ、すみません」
「ううん、いーよ」
 しばらくネコを追っていた目で寂しく笑うと、カカシ先生が立ち上がった。
「……オレね、ネコもスキなんだけど、どうも嫌われちゃって。犬の匂いがするからかな……?」
 苦笑するカカシ先生にさっきの光景を思い出して申し訳なくなった。もう少しで触れそうだったのに、俺が邪魔した。
「……すみませんでした」
「気にしなくていーよ。いつものことだから」
 ぽんぽんと俺のことを慰める様に肩を叩くと、マスクの下で笑顔を浮かべて去っていった。
(……悪いことしたな)
 俺が現れなかったら、カカシ先生はネコに触れられていただろう。

 だから、お詫びすることにした。



「うん、完璧」
 鏡に映った自分の姿に満足する。黒くつややかな毛並みにしなやかな体。ぴんとしっぽを立てると「にゃあ」と鳴いてみた。どこから見てもさっきの黒猫。顔の傷も毛に隠れて、俺だと気付かれることはないだろう。
 ゆらっとしっぽを揺らすと窓から抜け出す。塀の上に飛び降りると、トトトと足取り軽くカカシ先生の家に向かった。
 ちょっと遊んだら、すぐに帰ってくるつもりだ。カカシ先生の笑顔を思い浮かべて胸が膨らんだ。
(喜んでくれるといいな……)
 浮かれて歩いていると影が差した。毛を逆立てたネコが呻り声を上げている。
「フーッ!」
(え!?え!?なんで??)
 ビックリして体を硬くするとネコの前足が飛んできた。顔を強かに殴られて塀から落とされる。空中で宙返りして地面に着地したが、後を追う様にして飛びかかってきたネコに慌てて逃げた。
(なんで?俺、なんにもしてないのに……!)
 殴られた顔がジンジンする。痛みで右目を開けられなかった。血の臭いが鼻についた。
(もしかして爪が目に入った……?)
 眼球を傷つけたかもしれない恐怖に胸が詰まった。素早く角を曲がって追っ手から姿を隠す。一目散に走っていると、横から犬が飛び出してきた。
「ワンワンワン!!」
「ふぎゃっ」
 足が縺れて転がると剥き出しの歯が迫り来る。
(もう駄目かも……!)
 耳を伏せて痛みに耐えようとすると、がしゃんと金属音が鳴った。
「ワン!ワン!」
 そうっと目を開けると、繋がれた鎖が伸びきって、後ろ足で立ち上がった犬がこっちに来ようと跳ねていた。
(……助かった!)
 這々の体で犬から遠ざかると地面に向かって張り出た板を見つけた。
(……あの下に隠れよう)
 目の傷がどうなっているのか気になる。こんなんではカカシさんの所に行くどころでは無かった。ネコに襲われたなんて忍者の恥だ。絶対に知られたくない。
 あまりの惨事に項垂れていると、水が降り注いだ。
「野良猫が!こっちに来るんじゃないよ!!」
 ずぶ濡れになって見上げると、バケツを持ったおばちゃんが怖い顔で睨んでいる。
「最近魚を盗んでいくのはお前かい!?」
(違うよ……!) 
 辺りを見回すと、いつの間にか商店街に入り込んでいた。入り込もうとしていた板は魚を並べる板だった。今度は棒を持って追いかけて来そうなおばちゃんの勢いに腰を抜かしそうになりながら踵を返した。
 いつもは愛想良いおばちゃんのあまりの豹変ぶりに驚いた。俺だって分かってないのもあるけど、あんまりだ。
(もう家に帰ろう……)
 今すぐにでも変化を解きたかったけど、こんな姿を誰かに見られたくなかった。情けなさに泣きたくなるが、ネコに涙が出る機能はないらしく、代わりに鼻水がだらだら出た。
(ひ…っ、ぅうっ……、ひっく……)
「やだ、汚い猫!」
「黒猫なんて不吉」
 心の中で泣いていると、追い打ちを掛ける様に聞こえてきた声に耳を垂れた。ただ歩いているだけなのに人から嫌われる。
(こんなんでカカシ先生に会いに行こうとしてたなんて……)
 きっと、全然可愛く変化出来ていないに違いない。
 罰が当たった気がした。猫になるなんて浅はかなことをしたから忍者の神様が怒った。
 がつっと足下で跳ねた石にびくっと震え上がった。顔を上げると子供達が石を手に俺を見ている。
「やーい!のらネコ、逃げてみろ!」
 また飛んできた石から身をかわす。
「あ!待て!すばしっこいヤツ!」
 次々に飛んでくる石の一つが腹に当たった。
「ふぎゃんっ」
「やったー!僕の石が当たったぞ!」
「俺のだよ!」
 ムキになった子供がまた石を放る。
(もしかして死ぬんじゃないだろうか……?)
 このまま人だと気づかれず、ネコとして徒に殺される。
(黒猫は、いつもこんな思いしてたのかな‥‥?)
 カカシ先生が手を伸ばそうとしていたネコを思い出した。怯えて人から遠ざかろうとしていたネコ。
 俺も今、人間が心底怖かった。
「おい!お前ら何してる!!」
「ヤベッ!逃げろ!」
 大人の声がして、子供達が逃げていった。
(俺も逃げないと……)
 痛む体を引き摺って歩いていると人間の手がこっちに向かって伸びてきた。
(いやだ!怖い!)
 恐怖と悲しみに胸が塞がる。
「フーッ!フウーッ!」
 行く先を阻まれ、後退して壁に体を押しつけていると人の手が俺の体を掴んだ。ゆっくり持ち上げられて気が遠くなる。
「……大丈夫だーよ」
 そうっと腕の中に下ろされ、聞き覚えのある声に腕の主を見上げた。覆面と額当てで右目しか見えていない人が俺を見下ろす。
(……カカシ先生!)
 動転してわたわたと腕から下りようとすると、ぎゅっと体が締め付けられた。
「コラ、動いたら落ちちゃうデショ?」
 子供達に言ったより、ずっと優しい声が俺を諭した。
「じっとして」
 顎を持ち上げられ、目の下に触れた指に飛び上がった。
「にゃっ」
 痛いから触らないで欲しい。
「嫌がらなーいの」
 ぐいっと目蓋を下げられ目が開いた。
(あ、見える!)
「大丈夫だね、目は傷付いてない」
 カカシ先生の言葉にホッとして顔を拭った。手に付いた血を舐めとって、もう一度顔を擦る。情けなくて、また涙が出そうになったが堪えた。体がブルブル震えて止まらない。
「触ったらダメだよ」
 腕を掴まれてカカシ先生を見上げた。
「うちにおいで」
 トンとジャンプしたカカシ先生に抱きかかえられて、腕の中から夕暮れの里を見下ろした。



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