もっと近くへ





 チカチカと瞬いた蛍光灯が足下を照らして、暗かった廊下に影が出来た。凭れたドアの内側は無人で、いつもなら明かりの漏れている台所の窓は暗く、しんと静まり帰っていた。
 帰らない人を家の前で待つなんて、今までしたことなかった。それでも待ってしまうのは、それだけ想いが強いからだ。
 それがオレだけだとしても、待たずにいられない。相手が意識していなくても、今日は恋人たちにとって特別な日だから。
 今頃イルカ先生は、どこで何をしているのか。
 はぁっとこぼれた溜め息に寂しさが混じる。好きと言ったのも告白したのもオレからだ。
(……イルカ先生は、ただ断りきれなかっただけかもしれない)
 何度も思った疑念がまた胸を占めた。
 恋人として付き合うようになってからしたキスはたったの一回。告白にOKを貰えた嬉しさから、勢いで重ねた一度だけだ。肉体関係もまだない。
 奥手なイルカ先生のことだから、セックスなんてまだ先でいいと考えているかもしれない。それともオレがそう思いたいだけか。イルカ先生だって男なんだから、性欲は有るはずだ。
(ただ、それがオレに向かないだけで……)
 カン、と響いた足音に顔を上げた。カン、カン、と足音を立てて、イルカ先生が階段を上がってくる。俯いてオレに気付かないのに、潜めていた気配を解くと、はっと顔を上げた。
「カカシ先生、いらしてたんですか」
 にっこり笑う顔に『迷惑』が無いか探した。オレは臆病で、勝手に家まで押し掛けながらイルカ先生にそう思われたくなかった。
「お疲れさま。残業だったんですか?」
 本当は、アンタが他の誰かと過ごしてるんじゃないかと心配していただなんて、口が裂けても言えない。
「ええ、休みの前だったので、全部片づけておきたかったんです」
 その言葉にホッとする反面、鍵を開けるイルカ先生の足下に置かれた紙袋に目が釘付けになった。カラフルな包装紙に包まれたチョコがたくさん入っていて、誰とも知らない相手に嫉妬した。
(オレのイルカ先生にチョコをあげるなんて…)
 声を上げて止めろと言いたい。だけどそうしないのは、オレが願うようにオレはイルカ先生に好かれていないと思うからだ。
「どうぞ」
 イルカ先生が部屋の中へ招いてくれたことに安心しつつ、まだ数えるほどしか足を踏み入れたことのない部屋へ入る。そこはイルカ先生の匂いがして、泣きたくなるほど胸が締め付けられた。本当はこの腕の中に抱き締めて、直接首筋に顔を埋めたかった。服の下に隠れた肌を何度も想像した。
 イルカ先生はオレがそんなことを考えてるだなんて、思いもしないのだろうけど。
「カカシ先生、お腹空いてないですか? 俺、晩飯まだで…。良かったら一緒に食べませんか?」
「ええ…、お願いします」
 今になって手土産一つ持っていなかったことに気付いた。ちょっと考えれば分かることなのに。オレは自分のことしか考えてない。イルカ先生を優先に考えられないから、イルカ先生の望むことに気付けない。もしオレがすぐに食べられるものを用意していたら、とても喜んで貰えただろう。
「…あの、イルカ先生手伝います」
「大丈夫ですよ。すぐ出来ますから」
 速攻で断られて、腰を浮かす暇も無かった。台所で動くイルカ先生を目で追った。
(傍に行きたい)
 こんなに近くに居るのに、そんな願いすら叶えることが出来なかった。
 イルカ先生の背中が遠い。
 告白したのは、良い返事を貰えると確信したからだった。イルカ先生もオレに好意を持ってくれている、そう思えた。
 なのに告白した日からイルカ先生が遠い。
 こんなことなら告白しなければ良かったと思うけど、一度手に入れた恋人の座は手放しがたく、距離を感じたままイルカ先生の傍から離れられなかった。
 いや、実際の距離なら近い方なのだろう。イルカ先生はオレ以外を家に呼ばない。
 離れてしまったのは、きっと心の距離。オレがイルカ先生を愛おしく思う分、何故かイルカ先生は離れて行ってしまうのだ。
(寂しい…)
「もう少ししたらご飯が炊けますから、それまで待ってくださいね」
 粗方出来上がったのか、イルカ先生が居間に戻ってきた。
「あ、うん。アリガト」
「いえ」
 イルカ先生はにこっと笑うと、徐にチョコの入った袋を引き寄せた。途端にジリジリと胸が焦げ付くが、イルカ先生はオレに構うことなくリボンを解くと包みを開いた。
「わぁっ!綺麗だなぁ」
 嬉しそうにチョコを見つめるイルカ先生に苛立ちが込み上げた。今すぐ火遁で袋毎チョコを燃やしてしまいたい。
 いくらなんでもあんまりだ。仮にも恋人の前で、他の人から貰ったチョコを開けるなんて。
(…それともオレのことが気にならないぐらい、イルカ先生にとってオレはどうでも良い存在なの…?)
 哀しみと怒りが渦巻いた。そんなオレの目の前で、イルカ先生は次々と包みを開いた。小さな卓袱台は形の違う様々なチョコで埋め尽くされる。
「カカシ先生は? カカシ先生もチョコレートをたくさん貰ったんじゃないんですか? 明日は休みだし」
 オレは全部断った。バレンタインのチョコなんて、好きな人から一つ貰えば十分だから。
(イルカ先生はそう思わなかったのか…)
 込み上げそうになる涙をぐっと堪えた。
「ン…」
 イルカ先生がこれだけたくさん貰っているのに、一つも貰えなかったと思われ
たくない。イルカ先生にあげようと隠し持っていたチョコを渡すと、「開けてもいいですか?」と無造作に開けられてしまった。
 本当はもっと甘い想像をしていた。チョコを貰ってはにかむイルカ先生に、手ずから食べさせてあげたかった。
 理想と違い過ぎる光景にガッカリを通り越して、絶望の淵まで突き落とされた。
(イルカ先生は、オレと恋人になる気なんてないのかもしれない)
 もしかしたら、恋人だと思っているのはオレだけで、イルカ先生にはそのつもりすら無いのかも…。
「カカシ先生のチョコが一番綺麗!」
 そう歓声を上げたイルカ先生が、チョコを摘むとぱくっと口に入れたから慌てた。
「ちょっと!そんな簡単に口に入れて! 変な物でも入ってたらどうするんですか!」
 叱りつけると、イルカ先生はきょとんとした。
「入っててもいいです」
「なっ…」
「このチョコ、カカシ先生のでしょう」
 いきなり事実を突き付けられて言葉を無くした。つま先から炎が駆け上がる。込み上げる恥ずかしさから激しく狼狽した。
「なんで!?」
「だって、カカシさんがチョコを断るの見てましたもん」
 しれっと言うイルカ先生に開いた口が塞がらない。
(それに『カカシさん』って…!)
 今この瞬間にそんな風に呼ぶなんてズルい。変な物が入ってても良いとも言った。
(それって…、それって…!)
「イルカ先生!」
「あっ」
 両手を伸ばすとイルカ先生を引き寄せた。手の中から零れ落ちそうになったチョコに気を取られたイルカ先生の頬に手を添えると、上を向かせて唇を重ねた。二度目になるイルカ先生の唇は思い出の中より甘く柔らかい。
 イルカ先生はオレが越えられないでいた垣根をあっさり越えて、こちら側にやって来てくれた。
 愛しさに体をきつく抱き締めると、薄く開いた唇から舌を滑り込ませせて、チョコ味の舌を吸い上げた。
「んっ…ん…」
 喉の奥でくぐもる、イルカ先生の甘い息に全身が熱くなる。くたりと力の抜けたイルカ先生の体を抱き上げると寝室に運んだ。ベッドに下ろした時、まだ手の中にチョコを持っていて、クスリと笑うとその手を開いて箱を窓辺に置いた。


 翌朝、くぅくぅ騒ぐイルカ先生の腹の虫に起こされた。腕の中に裸のイルカ先生を抱えてくすくす笑っていると、目を覚ましたイルカ先生がオレの頬を抓った。
「カカシさんが晩ご飯を食べられなくしたからじゃないですか!」
「ウン。そうだーね」
 ぎゅっとイルカ先生の体を抱き締めると、照れたイルカ先生がジタバタ暴れ出した。
「こら!もう離せ!」
 つれないことを言う唇に、昨夜窓辺に置いた箱からチョコを摘み上げて押し付ける。熱に溶けたチョコがイルカ先生の唇を汚して、開いた唇にチョコを押し込みながら追い掛けるように口吻けた。



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