黄金色
しん、と冷たく締まった空気を切り裂いて前へ駆けた。早く、早くと逸る気持ちが、疲弊しているはずの体を軽くする。
いつもは闇に包まれている夜更けも、今宵ばかりは家々の窓に明かりが点いて、中の温かな団らんを想わせた。
――早く。
待っている人の顔が浮かんで、ふわりと胸を温かくする。オレの中でイルカ先生は、太陽の色に包まれていた。
それと同じ色した窓辺に突き進んで、ベランダの柵に足を掛けた。
「ただいまー」
鍵が閉まっているかも、と危惧した窓はすんなり開いて、中の暖かな空気が頬に触れた。
「おかえりなさい」
サンダルを片方脱いだところで、袢纏を着たイルカ先生がやって来た。内心、こんな所から入って怒られたらどうしようと小さくなる。でも、ここから入るのが大門から部屋に一番近いのだ。玄関に回る時間が惜しかった。
お叱りは、後でなら幾らでも受けるから、今は許して欲しい。
「何時?」
「11時40分ですよ」
気を逸らそうと思ったワケじゃないが、壁に掛けられた時計から視線を戻したイルカ先生が笑顔のままなのにホッとした。
――そうだ。イルカ先生はずっと笑顔だった。
「はぁー、間に合ったぁ」
「はい」
いろんな意味で良かったと体から力を抜くと、イルカ先生の手が伸びてオレの頬を包んだ。
「お疲れさまでした」
「ウン」
カイロのように熱い手の平にホッとした。イルカ先生は自分だけが部屋でぬくぬくしていることを気にするが、オレはイルカ先生が暖かい所にいることこそが、オレの本当の仕事だと自負している。
イルカ先生にはこんな風にオレを温めて欲しかった。
「冷たい…。すぐお風呂入りますか?」
「でも時間が…」
「まだ大丈夫ですよ。カカシさん、いつもお風呂早いから。沸かしてあるから、先にどうぞ」
ぐずりたい気持ちはあったけど、イルカ先生に勧められては従わざるを得なかった。手にあったサンダルを、イルカ先生が玄関へ持って行く。
「すぐ上がるから!」
「はいはい」
笑うイルカ先生が台所に消えると、急いで服を脱いで風呂に入った。
体を洗って湯船に飛び込むと、丁度良い温度に保たれている。オレがこの時間に帰れる補償なんてどこにもないのに、イルカ先生の気持ちが嬉しかった。
風呂から上がると、濡れた髪を拭くのももどかしく居間に向かった。イルカ先生は出来上がった蕎麦を運んでいるところで、オレを見てにっこり笑った。時計を見ると、11時55分。
(間に合った!)
イルカ先生と同時にこたつに潜り込むと、向き合って両手を合わせた。
「「いただきます」」
一緒に言って箸を手に取ると汁の中に浸けた。蕎麦を掬ってつるつるっと啜ると、じんわり出汁の味が口の中に広がった。
「美味しい」
賛辞の声を上げると、イルカ先生が湯気の向こうで微笑んだ。
――そう、この光景。
オレはこの光景が見たくて、急いで帰ってきた。イルカ先生の笑顔がすべてを照らす光のようにオレを包んで温かくする。
「イルカ先生、あのね」
その時、ごーんと遠くから鐘の音が聞こえて来た。蕎麦を啜っていたイルカ先生が動きを止めて耳を澄ます。
それは、ごーん、ごーんと続けざまに鳴って、新しい年の始まりを合図した。
イルカ先生が口の端から伸びていた蕎麦をちゅるんと啜る。
オレは箸を置いて居住まいを正すと、ペコリと頭を下げた。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくネ」
「あけましておめでとうございます。俺の方こそ、よろしくお願いします」
やけに神聖な気持ちになって、イルカ先生を見つめた。とても良い年の終わり方をして、とても良い新年の迎え方をした。
(今年の終わりも、どうぞ同じように迎えられますように)
鬼が聞けば笑いそうな事を真剣に願う。
(そして、イルカ先生が幸せでありますように)
挨拶を終えてにっこり笑うと、イルカ先生はまた蕎麦を啜った。それから思い出しように顔を上げた。
「カカシさん、さっき何言い掛けてました?」
「ウン? ウン。さっき言った事。今年もよろしくって言いたかったの」
「そうですか」
言って、にかっと笑うと蕎麦を啜る。そんなイルカ先生が可愛くて仕方なかった。
本当は溢れそうになる思いのまま、
『ずっと一緒に居て』と、言いそうになっていた。もう一度言っても良かったのだが、改めて言うのも照れ臭い。それに、わざわざ言葉にしなくても、イルカ先生は傍にいてくれる。
言葉にする必要なんてなかった。
蕎麦を食べ終わるとイルカ先生をベッドに誘った。
新しい年のスタートを好きな人とイチャイチャ過ごすのは男の夢だ。
手を引くと、恥ずかしそうに付いてくるイルカ先生に嬉しさと面映ゆさで頬がムズムズした。
並んでベッドに腰掛けると、イルカ先生を押し倒した。見上げるイルカ先生の頬を今度はオレが包んで、そうっと口吻けた。
* * *
目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込んだ黄金色の光が、イルカ先生の黒髪を照らしていた。
昨夜はあの隙間をから覗く窓を鏡代わりに、後ろから抱え込んで足を広げさせたイルカ先生を見ていた。バレたら口を利いてくれなくなるのは必然だから絶対の秘密だ。
体を起こして外を見ると、晴れ渡った空の向こうで朝日が昇って来ていた。
「イルカ先生、起きて」
ゆさゆさ体を揺すると、うっすらと瞼が開いた。
「……かかしさん…?」
「一緒に初日の出見ようよ」
「ん…」
こしこし瞼を擦りながら体を起こしたイルカ先生が寒くないように、膝の間に抱え込んで布団で包んだ。
ゆったり体重を預けてくるイルカ先生を心から愛しく思った。
end