ひどい人
もう、やめておけ。
後ろ向きに歩き出す心とは裏腹に足は意思を持って前へと進む。
カサカサと音を立てるビニール袋が自分の手にあるのが酷く不釣合いで居た堪れなくなる。
でも、今日は大義名分がある。
イルカ先生が倒れた。
いや、きっと倒れている。
酷く具合が悪そうなのに、その素振りを見せず彼は受付に座っていた。
なんでもないフリで、オレを見る目も冷たいままで。
恐らく気づいたのはオレだけだ。
どんなに嫌われても彼だけを見てきたから。
「何しに来たんですか」
床に転がっていても、彼は気丈にオレを睨みつける。
その目はどんな時でも逸らされることは無く、まっすぐに見つめてくる。
それはオレに興味があるからではなく、野生の猫がそうであるように、オレを警戒しているからだ。
「んー?助けが必要かなーっと思ってv」
おどけて彼を抱き上げると、一瞬体を固くしたが抵抗は無かった。
そこまでの体力もないらしい。
ぐったりと重い体をベッドに横たわらせ、布団を掛ける。
すぐに眠ってしまえばいいのに、彼の眼はぎらぎらと輝きオレの動きを追ってくる。
「台所借りるね?」
オレが居ては休まらないと判断して寝室の襖を閉めた。
しばらくして聞こえてくる寝息に探したタオルを湿らせ、完全に気配を消して寝室に入った。
額に汗で髪を張り付け、ひうひうと苦しげな息を喉から漏らす。
真っ赤に染まった頬が熱の高さを思わせる。
一旦台所に戻ると氷を砕き、袋に詰め、タオルで捲いて頭の下に引いた。
ベストを脱がし、汗に濡れた服を脱がせ、体をタオルで拭うと新しい服を着せた。
それらをオレは事務的に、なんの感情も込めずに行った。
好きな人に嫌われるしかないオレの存在。
どうして?
一体いつから?
何度も考えたが答えは見つからない。
気づいたら嫌われてた。
気づいたら好きになっていた。
これから先もそれは変わらない。
* *
起きた気配に、お椀にお粥をよそうと寝室を開けた。
「入るよー?」
意味の無い言葉。
言わなくても起きた時から剥き出しの警戒心でオレを探っていた。
「どーぉ?少しはラクになった?」
心底ダルそうに、それでもさっきより幾分ましになった顔色で彼が目線だけこちらに向ける。
「お粥作ったから食べれそうだったら食べて。それから薬飲んだら早く良くなると思うから」
極々自然に(内心では言い聞かせるように)言うと、イルカ先生が体を起こそうとした。
熱で体力を消耗したのかひどく弱々しいその動きに、手を貸そうとすると拒絶するように体を強張らせ、それに気づかぬフリで背に手を回した。
ヘッドに凭れさせ、布団を掛けなおすとその手にお椀とスプーンを握らせる。
「おいしく出来てるといーんだけど」
食べることを促すとイルカ先生がスプーンを口に運んだ。
ゆっくりと、二口、三口、往復させるとお椀にスプーンを戻した。
やっぱり無理か。
起き上がったことで再び具合の悪くなったイルカ先生に薬を飲ませると布団に寝かせる。
溶けてしまった氷を替え、額の汗を拭うと、されるがままだったイルカ先生が口を開いた。
「・・・・どうしてですか」
「んー?」
「こんなことしたって、なにも変わりませんよ」
ざわざわこんな時に、そんな念を押してくるイルカ先生に苦笑が漏れる。
絆されてくれと思わなかったかと言えば嘘になるが。
「そんなこと気にしなくていーから、よく寝て」
立ち上がり、寝室を出ようとするオレの背中にイルカ先生の言葉が投げかけられる。
――いいですよ。好きにして。
聞き間違いであって欲しかった。
振り返ったオレにイルカ先生はもう一度、同じ言葉を繰り返す。
「そう?じゃあ、イルカ先生が元気になったら」
茶化して聞き流そうとしたオレにイルカ先生は尚も言い募る。
「今です、今。今だけ好きにしていいです。今後はありません」
そんなに。
そんなにオレのこと嫌い?
底に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。
むちゃくちゃにしてやりたい衝動と、弱ってるイルカ先生に手を出すなんて嫌だと相反する感情がせめぎ合う。
抱きたい。
二度とそんな機会が訪れないなら一度だけでも抱いてしまいたい。
だが、今、そんなことをすればこの先、イルカ先生との交わりが消えてしまうのは目に見えている。
かといって、今後そんなチャンスが有り得るかと言えば、答えは限りなく――否に近い。
「――今なら抵抗出来ませんから、されるんでしたらどうぞ」
しないではなく、出来ない。
後で自分に対する言い訳まで用意して、オレに対する借りを無くそうとする態度に、
「わかりました」
一切の感情を殺し、布団を捲ってイルカ先生の隣に滑り込んだ。
イルカ先生の体を下に引き込み、上に覆いかぶさると、オレを見る目に侮蔑の色が混じった。
それは一瞬で消え去り、視線を顔ごと逸らすとどこか遠くを見る目つきになる。
オレはここにいるよ。
体だけ残してどこか遠くに行ってしまったイルカ先生に心の中で呼びかける。
ひどい人。
オレの事なんて全部見通してるくせに、見せつけるように態度で示す。
お前なんか知らない。
お前なんか興味ない。
お前なんかいらない。
お前なんか――。
存在ごと消されて、無言の刃に体を突き刺されながら、それでもオレはイルカ先生の首筋に顔をうめた。
くんと息を吸えば汗の匂いと強くイルカ先生の匂いが香る。
首筋に張り付いた髪を掻き上げながら、押し付けた鼻を耳の後ろへと滑らせた。
火照った耳たぶが頬に触れ、その柔らかい感触を確かめるように頬を押し当てる。
汗で湿った髪に指を通して空気を送りながら、顎を上げて頭を抱きしめると喉元に熱い額が触れた。
腕を押し返す固い体を抱き締めて、最後に一度だけ額に口吻けすると、そのままイルカ先生ごと横に寝そべった。
腕にイルカ先生の重みがかかる。
深く、深く息を吐き出すと、目を閉じた。
「なにもしないんですか。しないなら離して下さい」
「どうして?好きにしていいんデショ?ならオレの好きにさせて」
腕の中で身じろぐ気配に腕の拘束を強くすると諦めるようにイルカ先生の体から力が抜けた。
「・・・・抱くんじゃなかったんですか」
「抱いてるじゃない」
――ふぅん。
突き放すような小さな応え。
それがその日最後に聞いたイルカ先生の声だった。
やがて聞こえてきた寝息に、静かに涙が零れた。
見返りなんていらない。
ただ俺が好きなだけ。
この先も、ずっと。