どうしてこんな時に来てしまうのだろう。
そして、この人もどうしてついさっきまで寝ていたくせに、起きてオレを迎えてくれるのだろう。
まだ眠い瞼を擦りながらイルカ先生が言う。

おかえりなさい、と。





ふわふわ





「お風呂にしますか?それともご飯?」
本人にそのつもりはないのだろうけど、まるで新婚みたいなことを聞いてくる。
「疲れた」
一言だけ言ってサンダルを脱ぐと、「ん」と道を開けてくれた。
今日はこのまま寝てしまおう。
居間で座布団を二つに折って頭を乗せる。
目を閉じて体を丸めると、すぐ肩を揺さぶられた。
「カカシさん、ご飯は?」
「いらない」
「じゃあ、お風呂入って」
「いい」
「いいじゃないですよ、ほら」
ぺしぺしお尻を叩いて促される。
こうなるとイルカ先生はしつこい。
勝手にベストのジッパーを下ろしてくる手に苛立って、しぶしぶ体を起こすと風呂場へ逃げた。
なぜ放っておいてくれないんだ。
腹立ち紛れに服に叩きつけて脱ぎ散らかす。
馴れ合いから来るイルカ先生のお節介がうざったい。
慣れているからこそ放っておいて欲しい心情を察してくれても良さそうなのに。
深夜に押しかけておきながら勝手なことを思う。
浴室に入るとイスに座ってシャワーのコックを勢いよく捻って頭から浴びた。
それ以上なにもする気が起きない。
ただ苛立ちがじくじくと湧き上がって、それが過ぎ去ってくれるのをじっと待った。

「入りますよー?」
突然掛かった声と開いた扉に吃驚して体が跳ねてしまった。
服を着たイルカ先生が袖を捲くりながら入ってくる。
「な、なに?入って来ないで・・」
「まあまあ・・、髪洗ったげます」
なにが「まあまあ」だ。
いつもは頼んだって一緒に入ってくれないくせに。
「出てって」
いらないと突っぱねるが、イルカ先生はオレに構うことなくシャワーを止めるとシャンプーを手に取った。
「イルカ先生」
「いやです」
「・・・・・・・」
何故だ。
効果絶大のオレの声音がイルカ先生には通用しない。
かなり怒気を込めて呼んだのに、イルカ先生は諸共せずにごしごし髪を泡立て始めた。
ごしごし、ごしごし。
イルカ先生の手の動きに合わせて頭が揺れる。
イルカ先生が耳の後ろを擦ると褐色の泡がタイルに落ちた。
(ちゃんと洗い流したのに・・。)
見られたくない。
手で隠そうとする前に、シャワーが泡を流した。
頭から流れるお湯が泡を排水溝へと押しやって見えなくなった。
「・・・ちゃんと、流す前に言ってくださいよ」
「でも顔には掛かってないでしょう?」
横から顔を覗きこまれるのを感じた。
生え際を押さえる手が水の流れを顔に掛からないように妨げてくれる。
そんな子供にするようなやり方が居心地悪くてむずむずしていると、お湯を止めてまたイルカ先生が髪を洗い出した。
今度は指先で頭皮を洗う。
しゃくしゃく、しゃくしゃく。
細かく指先を揺らしながら丁寧に洗う。
心地よさに項垂れると、真っ白な泡が落ちた。
肌理の細かい真っ白な泡がぱたぱたとタイルに落ちる。
その白さに不思議と心が落ち着いていく。
「洗い足りないとこないですか?」
「・・うん、ないよ」
イルカ先生の手が綺麗にした。
オレの汚れていたところは洗い流してしまった。
「じゃあ、流しますよ?」
「うん」
目を閉じると頭からお湯が掛けられた。
「ちょっと息を止めてください」
ん、と息を詰めると顔に付いた泡まで流された。
シャワーが遠のいて、イルカ先生の指が髪を梳くときゅっと髪が音を立てた。
「リンスしますか?」
「うん」
ぬるぬるとした感触は好きじゃない。
だけどイルカ先生の手が離れてしまうのがイヤで頷いた。
少しでも長く触れていて欲しい。
ぬめりを纏ったイルカ先生の手が髪に触れている間、ずっとそんなことを思っていた。
でも瞬く間に時間は過ぎてしまい、イルカ先生の指が離れた。
消沈していると背後でごしごしを泡を立てる音がした。
振り返るとイルカ先生がスポンジに石鹸を擦り付けている。
泡でむくむくになったスポンジを握り締めると、にっと笑って背中に押し付けた。
ゴシゴシ背中を擦られる。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
・・なぜだろう、嬉しい。
思わず緩んでしまいそうになる口元を隠すために前を向くと俯いた。
楽しくなってきて困る。
怒った後だからどんな顔していいのか分からない。
むすっとしたまま俯いていると、腕を持ち上げられて脇の下を洗うからくすぐったくて笑ってしまった。
胸も洗って、足のつま先まで洗われて、肝心なところはどうするんだろうと心臓をドキドキさせていると、イルカ先生の視線は逸らされているけど頬が次第に赤く染まっていく。
両足を洗い終えて腿で止まる手に、
「前は・・?」
と促すつもりで聞いてみると、ぼんと赤くなったイルカ先生がスポンジをオレの手に押し付けた。
「後はご自分で・・」
自分の手に付いた泡も流さずそそくさと逃げていくのが可笑しくて、目に涙が浮かぶほど笑った。


どこもかしこも綺麗になって風呂から上がると脱ぎ散らかした服が無くなっていた。
イルカ先生が拾い集めてくれたのを想像するとかぁと頬が熱くなる。
イルカ先生はきっと呆れただろう。
馴れ合って、我侭になっていたのはオレのほうだ。
だけどオレの理不尽な身勝手さをイルカ先生は受け入れてくれた。
恥ずかしい。
子供じみた行いの報いを一人でもんもんと受けているとイルカ先生が居間から呼んだ。
「カカシさーん、上がったんですか?」
「あ、はい。上がりました」
返事をしたもののイルカ先生に会わせる顔が無い。
リンスのお陰でさらさらになった髪をいつまでも拭っていると、イルカ先生が呼びに来た。
「なにやってるんです?こっちに来てご飯食べませんか?」
「いや、その・・、え?でも・・」
いらないって言ったのに。
袖を引かれて居間に行くと卓袱台の上のお椀が湯気を上げていた。
「少し食べてからのほうがゆっくり眠れますよ」
肩を押されて座るとお茶漬けが用意されていた。
焼いて解した鮭がご飯の上に乗っかっていて、炒ったゴマの香ばしい香りがするお茶漬けが。
食べたい、でも・・。
自分の言った言葉に縛られて動けないでいるとイルカ先生が手に箸を握らせた。
「少しだけでいいですから。ね?」
そんな風にされたら断れない。
頷いて、お椀を手に取った。
ずずっとお茶漬けを啜るとその熱さが胸に広がる。
「美味しいです」
湯気の向こうで頬杖を付いたイルカ先生が目を細めた。
それがとても幸せで。
つんと痛くなった鼻の奥を誤魔化すためにせっせとお茶漬けを啜り続けた。

イルカ先生を引っ張って布団に潜り込む。
いつもとは逆だけどより深く潜り込んでイルカ先生の胸に顔を押し付けた。
頭を抱えられて髪にイルカ先生の息が触れると気が緩んで体中から力が抜け落ちる。イルカ先生の体の温かさが眠りへと誘う。
だけど眠ってしまう前に言わないといけないことがあった。
「イルカセンセ・・、今日はゴメンネ。嫌な態度とって・・。コワかったデショ?」
とつとつと話せばイルカ先生が頭を撫ぜ、「怖くないですよ」と優しい声で言った。
「ホントに?オレのこと、嫌なヤツだって思わなかった?嫌いになってない?」
「ならないですよ。・・だってカカシさん、玄関開けたらすっごい拗ねた顔してるから可笑しくって・・」
「えっ、・・そうなの・・?」
自分では怒ってるつもりだったけど、イルカ先生にはそう見えたのか。
考えてみればイルカ先生の言うとおりかもしれない。疲れたと言っても倒れるほどでもないし、自分の足で帰って来た。ただ今回ちょっと嫌な任務だったから、それで気が滅入って、面白くなくて・・。
うわー・・。
思い返して恥ずかしくなった。
ここに来てオレがしたことと言えば、行き場のない思いをイルカ先生にぶつけただけ、――ただ八つ当たりしただけだった。
それをイルカ先生に上手く宥められた。
まるで子供にするみたいに。
あまりの恥ずかしさにイルカ先生にしがみ付くと、頭の上からクツクツ笑う声が降ってくる。
「ゴメンなさい・・」
「いいですよ、なんだかカカシさん可愛かったし」
ヒーっと声にならない声を心の中で上げた。
それはいつもオレがイルカ先生に言う言葉なのに、自分が言われると照れ恥ずかしい。イルカ先生が本気で言ってるのが伝わるから尚更。
「勘弁してよ・・」
いつもイルカ先生を支えるのはオレだって思ってたのに、これじゃあ立場が逆じゃないか。
・・だけど。
ぜんぜんイヤじゃない。
ふっと力が抜けて体が軽くなった気がする。
守るだけじゃなく、オレもまたイルカ先生に守られてる。
その心地よさが気持ちを軽くした。
「イルカセンセ・・、スキ!」
「俺もですよー」
のんびり言ったイルカ先生の体から力が抜けていく。
いつも以上に好きだと思ったことはちゃんと伝わっただろうか?
揺り起こして確かめたいのを我慢した。
イルカ先生の息がふわふわ髪をくすぐる。
その息が寝息に変わるよう腕の中で息を潜めた。




end




イルカ先生の掌でころころ。
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