アスマのイルカ観察日記 夏





 今年の夏は猛暑だった。連日の照りつける日差しが動物園のアスファルトを焼いて、陽炎を立ち上らせていた。
 熱中症のニュースがテレビから流れない日は無くなり、人に注意を促す。それは動物にも言えたことで、茹だる暑さで動物たちが死なないように各舎に取り付けられたエアコンがフル活動した。
 しかし一斉に冷房を使うと、室外機がオーバーヒート気味になり冷えが悪くなる。
 そこで動物たちに氷のプレゼントをすることになった。
 まあ氷と言ってもすぐに溶けてしまうから気休めかもしれないが、それでも中に果物を凍らせてやると、動物たちは喜んだ。
 イルカとカカシの場合、果物を食べないし、肉を凍らせる訳にはいかなかったから、そのままの氷を贈った。
 朝ご飯を食べている内に、室外運動場に氷を運ぶ。大きな塊を二つ置いて外に出ると、二匹が出てくるのを待った。
 イルカはまだおれの腕に抱ける大きさの時に氷で遊んでやったが覚えているだろうか?
 小さな氷を鼻先に浸けてやると、吃驚した顔をしていた。濡れた鼻をペロリと舐めて氷に手を伸ばした。ひたひたと小さな肉球で氷に触れるのが可愛かった。
 少しばかり感傷に浸っていると、イルカが口の周りをべろべろ舐めながら外に出てきた。この暑さでも食欲があるのが頼もしい。
(イルカは食い意地が張ってるからな…)
 後を追うようにカカシも出てきて、二匹同時に氷が置いてあるのに気付いた。
 こんな時、真っ先に向かって行くのはイルカの方だ。カカシは野生の時期もあったせいか、慎重な性格をしていた。その点イルカは園育ちで、無邪気かつ天真爛漫だ。きっとこの動物園の中で悪いことなんて起こらないと思ってるに違いなかった。
 今回もイルカが先に駆け出して氷に向かった。ひたリと前足を乗せるとふんふん匂いを嗅いで、ベロベロ舐めだした。冷たいのが気に入ったのか、大きな氷を前足でがっしり挟んでいた。
 一方カカシもイルカの様子を見ていたが、隣の氷に顔を近づけるとふんふん匂いを嗅ぎだした。
 カカシは氷は初めてだろうか?
 カカシはベンガルトラだ。カカシが済んでいた地方では雪は降らないだろう。当然氷を見るのも触るのも初めてかもしれない。
 もう一度イルカを見て鼻先を近づけると、ちろりと舌先で舐めた。
(大丈夫だから食ってみろ)
 イルカは顔を傾けて牙を立てようとしている。害が無いと分かったのか、カカシもペロペロ舐めだした。
 だがイルカほど冷たい物は好きじゃないらしく、すぐに舐めるのを止めた。前足で押して、それが滑ると分かるとぐいぐい押していく。
(…遊ぶつもりなのか?)
 見ていると、カカシは池まで氷を押して中に落とした。ザブンと水しぶきが上がり、見ていた観客から残念がる声が上がるが、カカシが体の向きを変えて後ろ足から池に入っていくと歓声が上がった。
「カカシはかしこいね!」
 子供が声を上げたが、まったくだ。そうすると水が冷たくなると思ったのだろう。カカシは水遊びが好きだから、舐めるよりそっちの方が良いだろう。
 ふいに、イルカが顔を上げた。カカシが水の中にいるのを見ると、夢中になっていた氷から離れて、池の側に行った。
 くわんっ!
 カカシに不満げな声を掛ける。カカシの傍に行きたいのだろう。でもイルカは水際でうろうろするだけだった。
 イルカは水が怖い。それには理由があった。全部おれが悪い。
 聞いたことないだろうか?
 ほ乳類は生まれてくる前は母親の羊水の中で育つから、生まれて来たばかりでも泳げると言う話を。おれが子供の頃は、テレビのCMでも流れていた。
 昔、まだヨチヨチとしか歩けないイルカを沐浴させながら、思った。
 イルカも泳げるかな…? と。
 ほんの好奇心のつもりだった。体を洗われながらバシャバシャと四肢をばたつかせて遊ぶイルカの体を離した。
 水はイルカにとって思いの外深かった。ぶくぶくと沈んでいくイルカが、一向に泳ぎ出さないのを見て慌てて引き上げた時には、大量の水を吸い込んでいた。
「うぎゃーっっ!!!」
 鼻と口から水を流しながらイルカが泣き叫んだ。爪を立てておれにしがみ付いたイルカは、以来水を怖がるようになった。
 誰にも言えない過ちだ。
 だが今、水に入るカカシを見て、イルカも水に慣れてくれれば、と思った。アムールトラのイルカの毛はカカシよりも長く密集している。
 夏の暑さは堪えるだろう。水浴びが出来る様になれば、少しはマシになる筈だった。
(カカシ、イルカに泳ぎを教えてやってくれ)
 心の中で声を掛けると、カカシがイルカを誘う声を上げた。水際によって、イルカの顔を舐めると、また水の中へ入っていく。明らかに誘っていた。
 それを見たイルカの前足が一歩水の中に入るが、濡れるのを嫌って前足を振った。
(イルカ、トラは後ろ足から入っていくんだ)
「がんばれー!」
 見ていた観客からも声が掛かる。
 イルカは水際をうろちょろして、また「くわん!」と声を上げた。わっと飛び掛かるように前足を上げたり、引き返すように見せかけて、また戻って来たりする。
 くー、くぉー、くぉー…
 イルカはカカシに向かって抗議の声を上げていたが、バシャバシャと前足で水を叩くと寝転がってジタバタと四肢を揺らした。
 まるでオモチャ屋の前でぐずる子供みたいに。
 初めて見る光景にポカンとしたが、カカシもポカンとしていた。トラがポカンとするところなんて初めて見た。
 やがてイルカは「ふんっ!」と鼻を鳴らして起き上がると、カカシに背を向けてトラ舎の前に寝そべった。
 あとに残されたカカシはすごすごと水から上がって、イルカの側に寄った。鼻先を押し付けてイルカのご機嫌を伺うが、
「がおっ!」
 拗ねたイルカにトラパンチを食らっていた。そのあとイルカは随分長く拗ねて、カカシに背を向けて顔を隠した。



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