言葉に触れる





 頬に湿った重たい空気を感じながらカカシは駆けた。完全な暗闇にもかかわらずその足取りは軽く、通いなれた道のりを迷い無く進む。降り続いた雨が上がり、湿った土や草の匂いが鼻腔を擽る。それは久しぶりに嗅ぐ外の匂いだった。
 いつもしていたように窓を開けると部屋の中に忍び込み、ベッドの傍に降り立った。眠っているだろう家人にそっと手を伸ばせば触れる温もりにほっと息を吐く。
「ん・・・、え・・・カカシさん!?」
 驚いたような声を上げたイルカの頬を探り当てると包み込んで唇を寄せた。
「逢いたかった・・・」
 性急に口吻ければ僅かな抵抗にあったものの、角度を変えて啄ばむうちに、イルカの手が胸に縋り、背中に回った。
「カカシさん・・・カカシさん」
 僅かに唇が離れる度に吐息を零すように名を呼ぶイルカに愛しさが競りあがり、もっと、と深く口吻けようとすると、イルカの手がカカシの髪に触れ、はっとしたように身を引いた。
「これ・・・・」
「ああ・・・、写輪眼使いすぎちゃって。ちょっと炎症起こしただけだから・・・右目もついでに休憩です。なーにすぐ取れまーすよ」
 安心させようと明るく言ったが痛そうな顔をしたイルカが目に浮かぶ。その証拠に、僅かに震える指先がカカシの両目に捲かれた包帯に触れてきた。
「もう・・・心配したんですよ。病院に行っても面会謝絶で逢わせて貰えないし」
「来てくれてたんだ。うれし・・・」
 抱きしめようと手を伸ばせば、何故かぐーっと押し返された。
「えっ?え?なに?」
「ちょっと待て。アンタ今日も面会謝絶だったのになんでここにいるんだ?」
「あーー。イルカ先生に逢いに?」
 やばい。ぜったい怒られる。
「許可は下りてんですか?下りてないでしょう?」
「う・・・あー・・・」
 言い訳を考えてなかった。
 逢いたくて。ただ逢いたくて見張りの隙を付いて抜け出した。一目散に駆けながら心に浮かべたのは、イルカの笑う顔と怒った顔。抱きしめたときの匂い。指の間を滑る髪、触れた時のぬくもり。
 もうすぐ逢える。
 そう思うとそれらで心がいっぱいになった。だってもう何日も会ってない。焦がれて、焦がれて、それしか思い浮かばなかった。
 するっとイルカが腕から滑り抜けて、ぱちっと音がした。部屋の明かりを点けたのだろう。
「・・・ったく」
 呆れたようなイルカの声が振ってきて、はっとカカシは顔を上げた。
 追い返される。
「やだ、戻らないよ」
 声のする方に手を伸ばせば、バシッと払い落とされた。
 急激に込み上げてくる悲しみに唇が震えた。俯いて溢れ出ようとするものに耐えようとするが上手くいきそうもない。
 はぁっと溜め息を吐かれてぎゅっとシーツを握り締めた。近づいてくる気配に身を硬くすると両手で肩を押されてベッドに横たえられた。
「イルカセンセ・・・?」
「今日は寝てください。起きたら病院に戻らないと駄目ですよ」
 子供を諭すように言われてカカシは小さく笑った。さっきの悲しみがウソのように晴れていく。
「それにしても見えてないのによくここまで帰って来れましたね」
「うん。前に言ったデショ。目を瞑っててもイルカ先生に辿りつけるって」
「・・・・・・・」
 きっと困ったような顔をして笑ってる。それにもう怒ってない。その証拠に髪を撫ぜる手はこんなにも優しい。 
 イルカの言葉よりも正直な手が見えなくてもすべて教えてくれた。

 どれくらいそうしてたのだろうか。立ち上がる気配がしてイルカの手がカカシから離れた。またぱちっと音がして明かりが消されたのだと思った。
「どうしたの?」
 そのまま寝室を出て行こうとするのに声を掛けた。
「あ・・・・まだ起きてたんですね。なんだか目が冴えてしまったんで・・・カカシさん先に寝てください。俺ももうちょっとしたら寝ますんで」
「うん・・・・」
 ぽんぽんと布団の上からあやす様に叩くと、気配が離れ寝室から出て行った。
 一人になった部屋で追い返されなかったことにほっと安堵の息を吐いた。枕に顔を埋めればイルカの匂いがして一気に体の力が抜けた。
 やっと帰ってきた。愛しい人のもとに。
 そう思うと自然と頬が緩んだ。
 待ってるから早く戻ってきて。そしてもう一度抱きしめさせて。

 いつの間にか眠ってしまっていた。シーツの上に手を滑らせたがイルカがいない。家の中はしんとして物音一つしない。床に足を下ろすと気配を探した。
「イルカ、センセ?」
 居間から漂う気配に襖を開けて声を掛けた。
「カカシさん、眠れないんですか?」
 耳に届くのは穏やかなイルカの声。
「うん・・・。イルカセンセ、何時まで経っても戻ってこないから・・・」
「すいません。起きたついでに残ってた仕事片付けようかと思って。もう、寝ますから先に戻って・・・・・・」
 気配のする方へ手を伸ばす。指先がイルカの温もりに触れると、ビクッと震えるのがわかった。
「センセ?」
「・・・・・・・」
 何も言わないイルカの肩が小刻みに震えている。
 仕事をしていたなんでウソ。きっと卓袱台の上には何も無い。
 両肩に手を置いて、肩から肘、肘から手首へと指を滑らせた。そして太股に置かれた手に辿りつけば、それはぐっしょり濡れていた。
「・・・・泣いてたの?」
「なに言ってんですか。泣く訳ないでしょう」
 呆れた、といった風にイルカが言った。
「ふーん」
 なんて往生際の悪い。濡れた手を擦るとふやけたように柔らかい。いつから泣いていたのだろう。両手で顔を覆って。声も漏らさずに。
「こ、これは・・・、水を零してしまって・・・」
「うん・・・・」
 イルカの背を覆うように座ると濡れたイルカの手をぎゅっと握り締めた。その手の上にぽたぽたと雫が落ちてくる。
「早く拭かないと・・・・」
「うん・・・・」
 イルカの頬に触れようと思って、止めた。
 ごめんね、心配かけて。
「大丈夫でーすよ」
「え・・・?」
「こうしてるうちに乾きますよ」
「・・・・・・」
 何も言わないイルカがこくんと頷いたのが背中の動きと、手に落ちてきた大粒の雫でわかった。
 今は好きなだけ泣いていいから・・・・。
 しんとした部屋の中でイルカを抱き寄せ指を絡めた。そうして言葉少ないイルカの指先から零れだす言葉に心を傾けた。



end