涙色
少しでもあなたに近づけるように、この色を。
その日はとても寒い日で。
普段なら忍服とベストでいけてたが、初めての待ち合わせということもあり、箪笥の中をひっくり返した。
袖を通したのは水色のセーター。
何年か前に、手触りが良くて買ったものの、こういう色は似合わない気がして着ずに置いてあったものだったが。
(イルカ先生みたいな色・・・。)
春の空を思わせるその色に彼が重なる。周りを温かい気持ちにするような優しい色合いは、オレにではなく彼に似合うだろう。オレもそんな人間だったら良かったのに。
寒い思いをさせないように早めに家を出た。玄関を開ければ、強くはないが頬を刺すような冷たく乾いた風が吹く。こんな日に外で待ち合わせをする己の愚鈍さを呪う。
公園には一時間前に着いた。枯れた枝を広げる公園には人影がなく、それでもすぐ分かるようにと、広場の端にある陽の当たるベンチに腰を下ろした。
「早く会いたい」と急く心とは裏腹に、頭の中でこれからの未来を思い描いては眼球が熱くなる。涙管を傷つけたから、もう涙が出る事はないけれど。
ズボンの後ろポケットから文庫を出して広げた。何もせずに待たれるよりこの方が気を使わせずに済むだろう。
イルカ先生の笑顔が好きだった。笑顔、と一言で言っても、イルカ先生は実にいろんな顔で笑った。可笑しくて笑ったり、何か企んでる様に笑って見せたり、嬉しそうだったり、照れ隠しだったり、時にはきまり悪そうに笑ったり。中でも一番好きだったのは仕方無さそうに笑う時だった。無理なお願いをした時に「しょうがないですね」と困ったように笑う。『困った』という顔をしながらも温かく受け入れてくれる。そうやってイルカ先生が受け入れてくれると、なんだかイルカ先生の『特別』になれた気がして、何度もつまらない事を言って困らせた。
でも付き合うようになってからは、そのどの笑顔も見れなくなった。笑う顔はぎこちなく、どこか無理しているようだった。いや、実際無理させていたのだろう。顔を合わせていれば辛うじて笑っていてくれるが、視線を外して様子を伺えば、じっと何かを考えるように浮かない表情をしている。
告白に返事を貰えた頃は嬉しくて気付けなかったが―――思い返せば恐らくその頃からだろう。アカデミーで、受付で笑う彼がオレの前だけ笑わない。楽しそうに笑っていてオレに気付いた瞬間、ふっと表情を曇らせ、それから笑う。それでやっと気が付いた。
(オレが上忍だったから。)
イルカ先生はただ断れなかったのだろう。その事実はオレを打ちのめしたが、かといって離れる事も出来ず。
何とか心を開いて貰えないかといろいろ試したが、最近では苦しげな表情を見せるようになった。
考えてみれば、とても幸せだった。イルカ先生を好きになって短い間だったけど、一緒にいて一生分の幸せをぎゅっと凝縮したような日々を過ごせた。
―――だから、もう、
開放してあげないと。
これ以上苦しめないように。きっとイルカ先生からは言い出せない。
今日一日、一緒に過ごして、それでイルカ先生に、
―――さよならを・・・・・。
気配を感じた。イルカ先生が近づいてくる。まだ、ずっと向こう。ゆっくり、ゆっくり歩いてくる。その様子を感知しようと体中の細胞が騒ぎ出す。全意識をイルカ先生に向けて彼が来るのを待った。忘れないように。これが最後だから、忘れてしまわないように。
公園の入り口で更にイルカ先生の足取りが重くなる。遠回りするように広場からではなく周りに配置された木々の間を通りながら中を伺い―――オレに気付いた。その瞬間――体中の神経が骨に張り付くように縮んで――視線を逸らした。オレを見つけたイルカ先生の顔に嫌悪が浮かんだら、と思うと見ることが出来なかった。指先が震える。怖い。
(怖い、なんて)
苦笑が漏れる。今まで『怖い』なんて感じた事なかったのに。
木と木の間から見え隠れするイルカ先生を視線の端で追いながら、近づいてくる終わりに何度も鼓動が止まりそうになる。それでも。
これから会えると思うと―――どうしようもなく嬉しくて喜びが胸を打つ。
(どうしてこんなに好きになっちゃったんだろう)
(どうして好きになってもらえなかったんだろう)
心が裂けた。歓喜と悲哀で息が詰まりそうになる。
彼が―――愛しくてたまらない。
イルカ先生が駆けてくる。
どこか泣きそうな顔をするのに鼓動が止まる。
「――――――」
ああ。今、なんて。
「――――――」
泣きながら笑う。初めて見る『笑顔』。
心臓が早鐘を打ち出す。
イルカ先生だけがオレの生きるすべて。