やわらかな夜に sample
「別れましょう」
紅を引いた美しい唇がそう動いた。それから後はよく覚えていない。
待ち合わせをした公園のベンチにぽつんと座り、ふと前を見れば、辺りはオレンジ色に染まっていた。
子供達が親に手を引かれて帰っていく。閑散とした遊び場に寂しさが込み上げた。
(俺…)
恋人に振られたのだろうか?
彼女の姿はすでになかった。
付き合い始めて、まだ三ヶ月。告白は彼女からだった。
初めて会う人だったが、告白されて即了承した。
好みのタイプだったから。
名を葉月と言った。生まれて初めて恋人が出来て嬉しかった。一生大事にしようと思った。このまま行けばプロポーズを、と考えていた矢先に振られた。
天国から一気に地獄へ落とされた。喪失感は大きく、胸にぽっかり穴が空いた。
(俺のどこがいけなかったんだ…?)
そう考えて、まだやり直せるんじゃないかと希望が芽生えた。悪い所さえ治せば、彼女は俺を見直してくれるはずだ。
(葉月さんと話をしよう!)
だけど、明日から里外任務だと言っていた。またしばらくは会えない。
彼女は俺より階級が上の上忍だった。俺には出来すぎた恋人だ。
(里外任務の間に新しい恋人が出来たらどうしよう…)
彼女は今フリーだ。それにとても綺麗な人だった。どうして俺なんかを見初めてくれたのか不思議に思うほど…。
俺は中忍だし、内勤のアカデミー教師だし。もちろん仕事には誇りを持っているが、外勤の忍に比べてパッとしないのは事実だ。
外勤の忍――例えばカカシ先生。里一番の忍だ。
すごくモテるって噂だった。この前、受付所でくのいち達が言っていた。
長期で里外任務の夜は、カカシ先生のテントを訪れるくのいちが後を絶たないらしい。毎晩入れ替わり立ち替わりしているそうだ。
それだけ相手をコロコロ替えても悪い噂が立たないのは、くのいち達が最初から一夜限りと割り切っているのもあるが、カカシ先生が素敵だからだと、口々に言っていた。
(良いなぁ)
俺もそんな風に言われてみたい。もちろん不特定多数にではなく、俺が大切にした彼女に。
彼女と過ごした日々が走馬燈のように駆け巡った。楽しかった思い出は、心の穴を大きくする。
(本当になにがいけなかったんだろう…?)
めそっとなりかけた時、後から名前を呼ばれた。
「イルカ先生?」
聞き覚えのある声だった。振り返ると、たった今想像していた顔があった。
「カカシ先生…、お疲れ様です」
じぃっとカカシ先生の顔を見た。口布と額当てで顔を隠しているが、僅かに見える部分で充分に彼が男前だと見て取れた。
「はぁー」
深い溜め息が出た。俺もカカシ先生ぐらい男前なら振られずに済んだだろうか。
「ちょっと、人の顔を見て溜め息吐くのはヤメテよ」
そう言いながら、カカシ先生は怒った素振りも無く、俺の隣に座った。
俺とカカシ先生は階級差があるものの、仲が良かった。アカデミーを卒業した教え子がカカシ先生の部下になり、子供達を通して話す内に二人だけでも会うようになっていた。
俺達は四つほど年の差はあるが気も合う。
それにカカシ先生は垣根を感じさせない人だった。そんな所もモテる一因なのだろう。
「どうかしたの?」
「なんかふ――」
「ふ?」
振られたみたいだと言おうとして止めた。まだ完全に振られたとは決まっていない。
「なんでもありません」
「そんな落ち込んだ顔して、なんでもなくは無いデショ。良かったら話し聞くよ?」
「本当ですか」
ぐわっと心が傾いた。話を聞いて欲しいのもあったが、カカシ先生からモテる秘訣を聞きたかった。
「ここじゃなんだから移動しよう。イルカ先生、ご飯食べた?」
「まだです」
「オレも。食べに行こう。飲める所がいーよね。オレの行きつけでいい?」
「はい」
カカシ先生の言動に集中した。カカシ先生は主導権を握りながら、俺の意向も聞いてくれた。気遣われていると感じる。
「あの、任務で疲れているのにすみません」
俺もカカシ先生を真似て気遣ってみた。ん? と視線をこちらに向けたカカシ先生の目が柔らかく撓む。
「いーよ。イルカ先生と一緒にご飯食べるの楽しいし」
(さり気ない!)
こんな風に言われたら、女の人なら舞い上がってしまうだろう。男の俺でも舞い上がった。
へこんで重たくなっていた心が軽くなった。
「それ、フラれてない?」
個室の居酒屋でビールを一口飲んだ後、カカシ先生が言った。店の人が料理を持って来るまでに、今日あったことを掻い摘んで話したのだ。
ドガンとビール瓶で頭を殴られたような衝撃が来た。
「まだそうと決まっていません!」
「そうかな…。でも『別れよう』って言われたんだよね?」
「そうですけど…」
「『距離をおきたい』とか、『考える時間が欲しい』じゃなくて」
ハッとして、もの凄く不安な気持ちが込み上げた。カカシ先生は俺の不安に追い打ちを掛ける。
「じゃあ、もう終わってるじゃない。少なくとも彼女の中では」
返す言葉が無かった。なんて酷い事を言うんだ。カカシ先生の言葉は、俺の僅かな希望さえも打ち砕く。そんな言葉は聞きたくなかった。
「全然可能性が無い訳じゃないと思います。俺が彼女の気に入らなかった部分を治せば、きっと考え直してくれます。カカシ先生は俺達がどんな風に過ごしたか知らないから、そんな風に言うんです」
むすっと口角を下げた。目の前の料理が味気ないものに思えて、手を付ける気にならない。
ビールをごくごく飲んだ。酔って痛みを和らげたかった。
「じゃあ、どんな風だったか聞かせて。そしたら打開策が見つかるかもしれないから」
「ホントですか…?」
縋る気持ちでカカシ先生に話した。俺達が半同棲状態だったこと。でも彼女に里外勤務が多くて、ほとんど一緒に居られなかったこと。
「里に居る間は寛いで貰おうって思って、一生懸命尽くしたんです。彼女は任務ばかりしてたせいで、家事は全く出来なかったけど、俺が作ったご飯を美味しいって食べてくれて」
話ながら楽しかった日々を思い出して喉が詰まった。もうあんな日が帰って来ないなんて嫌だ。寂しい。
「…そんな何にも出来ない女のどこが良かったの?」
カカシ先生が呆れた顔で言った。
「彼女は里の為に働いてきたんです! 家事なんて俺がすれば済むことです!」
つーんと鼻の奥が痛くなり、泣きそうになるのを堪えた。カカシ先生には分からない。
傍から見れば『そんな女』かもしれない。でも違うのだ。彼女は俺にしか分からない孤独を抱えていた。
言葉には出さなかったけど、ふとした瞬間寂しげな顔を見せた。でも俺が傍に寄ると、安心した顔で笑ったのだ。
凭れ掛かってくる体を抱き寄せて、心の底から愛しいと思った。彼女は上忍だったけど、この時ばかりは俺が彼女を守っていると感じられた。
一生彼女を守りたいと思った。
「彼女は俺が居ないと駄目なんです!」
グビーッとビールを煽った。カカシ先生は何も言わずビールを注いでくれる。
「カカシ先生…、俺どうしたら良いんでしょうか? 彼女とよりを戻したいです」
黙って聞いていたカカシ先生が「ふぅっ」と息を吐いた。
「…呆れてますか?」
未練がましい男だと思っているだろうか。
「そんなことないよ」
「本当ですか?」
「ウン」
カカシ先生の返事にホッとした。顔色を窺っても、呆れや侮蔑の色は見えない。
ここからが本番、一緒にご飯を食べに来たのはこの為だと気合いを入れた。
「カカシ先生はモテるから、女の人の気持ちが良く分かるでしょう?」
「オレは、モテたことなんてなーいよ」
カカシ先生は謙遜した。そんなの信じないぞと唇を尖らせた。
「俺、知ってます。今日も噂になってました。くのいち達がカカシ先生を取り合ってるって。カカシ先生が長期任務に出た後は受付所が賑やかですもん。追加の人員投入はないのかって。くのいちが何人も来て牽制し合ってます」
「そんな事してるんだ…」
カカシ先生が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あれはね、イルカ先生が思ってるのと違うの。向こうが勝手に言ってるだけで」
「はぁ…」
そんなカカシ先生のクールな所にくのいち達は惹かれているのだろうか。目に見えて引き気味な姿勢に、もっと追い掛けたくなるのだろう。
「信じてないね」
「だって…、毎晩テントに違う人が訪れるって…」
言って、かぁっと顔が熱くなった。立ち入ったことを言ってしまった。テントに入った後なんて、男と女のことなのに――。
「イルカ先生は?」
「えっ!」
「イルカ先生はどうしてたの? エッチの方は」
仕返しだろうか。カカシ先生はズバッと聞いた。ぶわっと体温が上昇し、酷く酔いが回ったように目の前がクラクラした。
さっきとは違う意味で鼻の奥がツンとした。
(ヤバイ)
鼻血が出る気配だった。俺はその手の話題に弱い。鼻の粘膜が弱いせいもあり、興奮すると鼻血が吹き出た。
「や、やめてくださいっ! そんな事聞くの…っ」
手でパタパタ顔を煽った。一刻も早く熱を冷まさなければ。
「イルカ先生が先に聞いたんじゃない。イルカ先生はどうだったの? 男と女が別れるのは、案外それが原因だったりするよ」
「……そうなんですか?」
勝手に熱が冷めた。
「上手くいってた?」
改めて聞かれてモジモジ腰を揺らした。個人的な内容で恥ずかしいが、原因が分かるならと答えた。
「……」
「聞えない」
「…か…ません」
「え?」
態とだろうか。カカシ先生は耳に手を当てた。
「分かりませんって言ったんです! 俺達まだ一度もシてませんから!」
「えぇっ!? 三ヶ月も付き合ってたんでしょう?」
「三ヶ月も、じゃありません。まだ三ヶ月ですっ」
はっきりと呆れた顔で見つめられて怯んだ。
「イルカ先生、相手くのいちだったんでしょう? それで三ヶ月も一緒に居て、何もしないなんて変ですよ」
「変じゃありません! 彼女を大切にしたかったんです! だから結婚するまでは清い体でいようって思って…」
「はぁ?? イルカ先生、あなたアカデミーの教師でしょう? くのいちがどんな任務を受けるか知ってるよね?」
カカシ先生は呆れを通り越して、怒ってるみたいだった。
「言わないで下さい。分かってます! 彼女が外でどんな任務を受けようと俺は眼を瞑ります」
「ばっかじゃないの」
言い捨てて、カカシ先生はグビッと酒を煽った。
ぐさっと来た。ブルブル全身が震える。
「俺は馬鹿じゃありません。謝ってください」
「いやーだね。だって本当の事だもん」
「あやまれっ!」
どっと涙が溢れた。彼女もそう思っただろうか?
「う…ひっく…どうすれば…よかったんですかっ。だって、彼女はくのいちで…、でも…俺は童貞で…、どうして良いか分からなかったんです…っ」
経験が無いと知られるのは怖かったし、呆れられるのはもっと怖かった。
「イルカ先生童貞だったの…」
カカシ先生のつぶやきに、チリチリ全身を炙られた。
「そう言ったじゃないですか! 何度も聞かないで下さい」
「男も?」
「は?」
「男ともないの?」
「当たり前じゃないですか」
カカシ先生が考え込む顔になった。
当たり前じゃないのだろうか。そう言えば、前に聞いた事がある。長期任務になると『そんな事』もあると。
『そんな事』とはつまり、男同士で慰め合うのだ。戦場とか、女の少ない任務の場合仕方ないらしい。
でも俺はそんな任務に当たらなかった。何故なら俺は中忍だからだ。未成年の内に教師になったせいもある。高ランク任務は回ってこなかった。
運が良かったのか悪かったのか。
奥手だったから、女の子と付き合ったこともない。葉月さんは初めて出来た彼女だった。彼女から告白してくれたから付き合えた。
「…セックスって、どうやればいいんでしょうか?」
恥を忍んでカカシ先生に聞いた。この危機を乗り越えられるのなら仕方ない。
「そんなの本能の赴くままにすれば良いじゃない。相手がリードしてくれなかった?」
「言えばしてくれたかもしれません。でも、俺怖くて…」
それらしい雰囲気になるのを避けた。そんな雰囲気にならなければ、無かった事に出来るからだ。無かった事は気にしなくても良い。
「俺がセックスしないから、彼女は別れるって言ったんでしょうか」
「多分ね。普通好かれて無いって思うデショ」
「そんなことありませんっ。大好きです! 彼女にもちゃんと伝えました」
「言葉だけじゃ気持ちはなかなか伝わらないよ」
「そんな…」
本当にそうだろうか? 俺が好きだと言ったとき、彼女は嬉しそうに頬を染めた。
「考えてごらんよ。任務で他の男に抱かれるのに、好きな男に抱いて貰えないんだよ。自分が汚れてるから嫌なのかなって思うデショ」
淡々と話すカカシ先生を見ながら、涙がポロポロ零れた。
もし彼女に会いに行って、汚れてるなんて思っていないと言って信じて貰えるだろうか。それを証明するには彼女を抱かなければならないだろう。
(でも失敗したら…?)
上手く出来なければ、それこそ彼女の傷を深めないだろうか?
「カカシ先生…」
「ん?」
「俺…、彼女に嘘を吐きました。経験あるって…、童貞って知られるの怖くて、経験あるって言ってしまいました…。上手く出来なかったら変に思いますよね? 俺が上手く出来ないのは、自分が汚れているせいだと思いますよね…」
どっと涙が溢れた。こんなことなら正直に童貞だと話して、手取り足取り教えて貰えば良かった。……でも、この期に及んで男のプライドが邪魔をする。
(やっぱり童貞だなんて知られたくない!)
泣き続ける俺の耳に「ふぅっ」と溜め息が聞えた。カカシ先生が溜め息を吐くのは何度目だろう。
(もう帰った方が良い…)
帰って、それで彼女を諦めるのか…?
新たに溢れた涙で前が見えなくなった。
「…抱いてあげようか?」
ぽつりとカカシ先生が何か言ったが、よく聞えなかった。――いや、聞えていたが耳から脳へ上手く伝わらなかった。
「…え?」
「だから、抱いてあげようかって言ったの」
「俺をですか!?」
素っ頓狂な声が出た。
「違うよ! オレはホモじゃないからね」
「俺もです」
じゃあ誰をだ? と考えて、かぁっと頭に血が上った。
「彼女に手は出させませんよ!」
「興味無いよ!」
「あ、そうですか」
ちょっと傷付いた。俺には魅力的な人なのに、カカシ先生のとっては違うのか。まあその方がとられずに済んでいいのだが、彼女の魅力を分かって貰えないのは心外だ。
(…もう俺の彼女じゃないけど…)
心の奥で敗北を認めた。
「それで、誰をですか?」
「だから、イルカ先生の影を」
「影?」
こんな感じのお話です。
ちらっとイルカ先生の彼女が出てきますが、皆様ご存じの方なので、むしろ問題無いかと思われますヾ(´▽`)ノ゛